民俗学や文化人類学において「 ハレとケ 」という場合、ハレ( 晴れ、霽れ )は儀礼や祭、年中行事などの「 非日常 」
ケ( 褻 )は普段の生活である「 日常 」を表している。
パリ在住作家の辻仁成さんのこの記事が素晴らしかった。
というより、こういうどういうわけか気恥ずかしく普段であればストレートに表現するのに躊躇いがちな
誰かの心の奥底にある本音、つまり純粋な喜び、悲しみ、幸せ、愛情といったものに触れると
どうも共感しすぎて嬉しくなって泣いてしまう。
ああ、ここに【 生きている 】人がいるじゃないか!
という喜びだと思う。
実際に泣いた。
そして昔を思い出した。
まだ楽器でキャリアを積もうと、楽器一本持ってあちこちの国を飛び回り国際コンクールで賞を取ったり演奏活動をしていた頃。
私は大真面目に、本当に余すところなく全力を出し尽くして賞を取りに行っていたので
ほぼ毎回努力が目に見える結果として返ってくるのは最高だった。
その瞬間のために人生全てを費やしていた時。
自分の演奏が皆に喜ばれる、これ以上の幸せがあるだろうか、と思っていた。
でも言ってみればそれはお祭りようなもの。
柳田國男の言う『 ハレ 』。
その祭のための下準備、毎日のものすごい気力体力忍耐力の必要な、孤独で地味~な何時間もの練習。
正直うんざりゲンナリしながらも続けなければいけない努力。
当時よく思っていたのは
ハレの幸せに関しては大満足、というより期待以上想定以上にとんとん拍子で目に見える結果が出て怖いくらい。
これで良し。
それに対して、ケの日の苦しくて暗いこと。
これは人生このままではいかんなあ・・・これでは続かない。
ケの日々も、いや、ケの日々こそ自分で納得いってしかも満足、幸せ、という人生にしないとな。
ということ。
そして今現在、当時夢見ていた、予定していた未来とは全然違う形の毎日を送っているけれど
だからこそ私はとても満足して、納得のいく幸せなケの日々を実現できている。
その満足のベースにあるのは
自分で自分の今までの人生全てに整合性が取れていると理解できて満足であること
今後の人生に関してゆったり落ち着いた覚悟、迷いのない信頼があること。
当時のようなハレの舞台はないけれど、全体として見た時に幸福の質も量も
それこそ当時からは想像できなかったほど底上げされている。
ありがたいことです。
そして
自分の人生を思う時
【 生きている 】人に触れた時
素晴らしい音楽を聴く時
素晴らしい絵を前に立ち尽くす時
自分の内側に自然に湧いてくる感覚
それは 神を前に祈祷する時と全く同じ敬虔な感謝 なのです。
Józef Rapacki, 1871- 1928 Meditation 1892
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