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「私の適職は何でしょう」などと他人に聞かなければ分からないような人は

 

算命学はたとえ今現在の生き方が宿命と合っていなくとも

宿命に合わせて人生を変更しなさい!

とか

転職しなさい!

とか言いません

 

そうではなく、どんなに「それ適職ではないよね・・・」という世界に進んでいようとも、そこでできる範囲で宿命の燃焼を成せばいい、そうすることでやがて真の適職へ到達するでしょうと論じています。

 

シャンゼリゼ通りの花屋 Louis Marie de Schryver

 

人間が人生の出発点から適職の世界に入れるなどと思っている人がいるとしたら、それは実に幻想でしかありえないのであります。おそらく50年、60年の人生経験を経てもなお、適職の真の姿を捉えることは至難の技でありましょう。(高尾宗家)

 

いやホントそうだと思いますよ。

 

靴職人 佐伯雄三

 

世の人たちは1つの仕事で大きな収入を得、社会的地位を掴み取ればそれを成功者といい、適職に就いたかのように錯覚してしまうものであります。

 

ホントあれ一体何だろうね?心底不思議。

何となくそれっぽく整えるだけで終わる人生。みんなが・社会が「これぞ成功、これぞ立派」とぼわんと思っているその範疇の最高レベルをとりあえず目指して「人生まあこんなもんかな・・」と。

そこそこ結果が出ても当然モヤモヤは残る。だって魂の中心とその人のあり方の中心がピタッと一致していないのだもの。はまり込んでいないのだもの。

 

けれど満足していい人生を送っている演技で成り立つ生活。

自分がそんななので、好きなことに人生丸ごと賭けて突き進み、なかなか上手くいっていない人を見てホッとしたりする。

そういう人がちらほらいて、そういう人同士は群れ集う。

世のメインストリームはこれ。

 

ああ、すみません。なんか毒舌。

ペコリんちょ

 

でも高尾宗家はもっとド直球スマッシュヒットで来ます。

 

「私の適職は何でしょう」などと他人に聞かなければ分からないような人は、恐らく生涯エネルギー不完全燃焼のままあの世へ旅立つことでありましょう。

それでいて成仏したいと願う心こそ、神への冒涜であります。

 

では真の適職とは何かというと

 

決して形あるものではなく、心の底から沸き起こる止めようのない活動。
それは「本能的な動き」であって、何々業と言えるようなものではないのです。
自ら動くというよりも言い知れぬ力に動かされるものであり、ひとりでに歩み動き始める行為なのであります。

 

「寝ても覚めても夢中!」な行為であり、考えてどうこうというものではない。今風にいうと「沼ってる」でしょうか(笑)

 

18世紀のパン屋さんの風景(作者不明)

 

別にそんなもの見つからなくても生きていけます。何も悪いことではないし、算命学も「そんなの駄目じゃー」なんて非難したり見下したりしません

 

ただ私は、人生には『これだ!』とバチン!!とハマる生き方や道というのはあると思っていて、それを探し当てる、見つけ出すことも人生の課題に組み込まれているといつも思っています。

 

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本日もお読みいただきありがとうございました。

 

そこをパスして形だけ整える人生・・・私は過去世で1度それをしています。1度だけじゃないかもだけど。そして死ぬときに全力後悔した記憶があって、それだけは繰り返すまいと心に誓っているのです。

ホントにあんな嫌な気持ちないんだよー(頭を抱える)

 

番匠 (棟梁大工)久保田米齋

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