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運の開花は “自らの努力” と “廻って来る運” と半々。そして宿命天剋地冲。

 

この間行ったこのコンサート

「芸は身を助ける」の話
その情報は美しく柔らかく、無駄もなく、濃く凝縮していてしかも上質で、私に必要なものだけがピンポイントで入って来る。

 

アンコールが1曲だけだったのですが、それが何の曲か分からなかったのですよね。

1度聴けば絶対に記憶に残る、なんとも切なくて悲し気で美しい曲。

分かった。最近出た彼のアルバムの最後にありました、これだわ。

 

この作曲家を私は知らなかったのですが、以下のような方。

イグナツィ・ヤン・パデレフスキ(Ignacy Jan Paderewski)はポーランドのピアニスト・作曲家・政治家(ポーランド首相)・外交官。高名なピアニストである一方、ポーランドの首相を務めたことで知られる。

現在ウクライナ領となっているポドリア地方の寒村クルィウフカ (Kuryłówka) に生まれる。

父親はポーランド貴族で自宅の屋敷で経済学者として働いていた。

生母はパデレフスキを産んで数ヵ月後に逝去したため、パデレフスキは遠い親族によって育てられた。

 

>ピアニスト・作曲家・政治家(ポーランド首相)・外交官

 

 

は?

 

その辺ってさらっと兼業できるものでしたっけ?

とりあえず命式を出してみると

良い感じで宿命天剋地冲。いいですねえ。

彼は幼少期に母を亡くして別のところで育てられているというのが後の開運に繋がっています(ご本人はしかしとても辛かったでしょうね)

その後も結婚して子供は生まれるものの障害が判明してその後死去、妻も産後死去と人生若い内から激動です。

 

 

そして

1887年にはウィーンでのデビューを果たした。

いくつかの文献には「 作曲とピアノ、どちらも大したことなかった 」とある 。

 

いやいや、ちょっと待てや(笑

誰やねん、そんなこと書いてるのは。

しかしその後

やがてピアニストとして大変な人気を集めるようになり、その後の出演は1889年パリ、1890年ロンドンで大成功となった。

パデレフスキの輝かしい演奏は大熱狂を巻き起こし、ほとんど異様なほどの長さに渡って賞賛の的となった。成功は1891年にアメリカ合衆国においても繰り返され、その名はたちまち高水準のピアノ演奏と同義となり、社交界が彼に跪いたのである。

 

>社交界が彼に跪いたのである。

 

ってこれまたすごいな(笑笑

彼は実際努力家だというのが以下の発言からも分かります。

「 一日練習を怠ると自分には分かる。二日怠ると批評家に分かる。三日怠ると聴衆に分かってしまう。」

 

いやもうホンマその通りでなんでございます、すみません・・・と何故か謝りつつ平伏したくなるのですが(笑)

 

私ね、最近よく思うのですよ。

社会的に活躍するという意味での「 運の開花 」は、そういう運が来る時には花開くし、来ない時には来ないと。それはある種順番なんだ。

もちろん本人の努力は運を左右します、それは間違いない。でもそれだけが直接的な原因ではないのは皆様よくご存じの通り。頑張った者順に報われるわけじゃない。本人の努力は運の開花の半分くらいに影響するのだろうと。

 

じゃあ残り半分は何かね?というと、今現在の自分がどうこうできる範囲にない、廻って来る運。周りからもらう運や、先祖からもらう運など。

最近陰陽のバランスについてよく書いていますが、どちらかの運が引っ込めば片方が上がるのはよくあること。それを分かった上で「 今度生まれてきたら、僕が・私があなたを陰で支える役をするね。私の運を使って社会で活躍する役をあなたがやってね。」という人もいると思うのです。そしてその究極の形が “ 早くに亡くなる ” という場合もある。昔戦国時代には武将に双子が生まれたら片方を伸ばすためにもう片方を殺めるようなことがあったらしいですが、それもつまりそういうことなんだよね。

この方は家庭運は大変だったけれど、その分外での運は思いっきり開花した。早くに亡くなった家族たちの運を貰ったとも言えるし、亡くなった人たちの分まで最大限濃く生きたとも言える。

 

◎ 自分の努力が半分

◎ 自分の力が及ばない範囲から廻って来る運が半分

 

その両方が上手く軌道に乗った時、人は傍目に見てもよく分かる形で花開くのだろうと思います。

特に彼は宿命天剋地冲の人なので、大変なカリスマ性を発揮したことでしょう。

しかし何と美しい曲なのでしょう。もっと彼の他の作品も聴いてみよう♪

 

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