私は算命学で人の生死を完全に読むことはできないと思っています。
算命学の看板を掲げて鑑定なさっている方で、死期が分かる人もきっといらしゃるでしょう。
もし仮に100発100中で読めたとして、そういう方は算命学以外の別の能力でそこを見てらっしゃる。
算命学で確実に分かるのは、人生の大きな枠や流れの方向性みたいなざっくりした部分。
この枠内であればどんな選択をしても全然OK、あとはいくらでも自由に決めて大丈夫
更に自分の感覚で微調整を繰り返してドンピシャな1点を見つければいいよ
というのが分かる解析学だと思っています。
そこが算命学の良いところだし、私が自分の “ 可視化できない世界を把握する能力 ” で掴んでいるところと完全に一致します。
また別の視点から言うと、あの世とこの世の境目を超えて
あの世からこっち側に来る=この世に生まれる
こちら側からあの世に帰る=死ぬ
みたいな大きなイベントこそ、本人単独で決められるわけではありません。
日常生活を送るといったことですら、誰もが目に見えない自分のチームと一緒にやっているわけです。
皆忘れてるけどね(笑
人生は共同で運営しているもの、この世に生きている自分はその運営チームの “ この世担当 ” であるだけ。
自分で考え決断し行動するというのも、“自分で!”と思っているしそれは間違いではないけれど
やはり見えないところでは無数の様々な力が働いているわけです。
日常生活ですらそう、況や生死をや。
人生はこんな感じで成り立っており
算命学で読めるのは宿命の方。
だからこそ同じ生年月日に生まれた人でも、結婚したりしなかったり
病気になったりならなかったり、あの仕事をしたりしなかったり
そして死ぬ時もバラバラ。
自分がどう生きて来たか、それ以前に家系からどんな影響を受けて生まれてきて
それをどうしようと思っていたか、役目は果たせたか
みたいな部分も人生に大きく影響してきます。
もちろん命式と後天運から、この時期は運気が不安定で要注意といったことは読めます。
でも同じ日に生まれた人が、皆その日に命を落とすかというとそれは全く別。
そんなことをこのニュースを考えていました。
お亡くなりになられた羽田議員さまには心から哀悼の意を表します
私にとってドンピシャの表現で言いますと
あの世とこの世の一線を越えて亡くなるいうことは、目に見えないけど居てくれている自分専属チームの皆から
ああ、もういいよ。
現世に生まれる時、あれこれやろうと思って持って行った宿題、課題とかお楽しみとか全部網羅したやん?
もう十分堪能したみたいやし、こっちに帰ってきてもいいよ。
と 帰還の許可が出る ってことなんです。
だからこそ大事故で死ぬと思われていたのに生き返った!(生き返っても体辛いしリハビリやその後の人生大変なのに)
みたいな人がいるのは
まだこれとこれとこれやってないやん。
やる?やるでしょ?
やるんならまだこっちに帰って来たらアカンわ。
はい、現世に戻って下さいね~
と押し戻されたってことなんです。
現世的表面的にどんな形でそれが起こったにせよ、それはその人単独で引き起こしたことじゃない。
もちろん本人がその出来事発生に大きく影響を与えるのは当然ですが、もっと大きな部分でこの世界は動いている。
自分という存在は、目に見えない世界も含めた大きな世界の一部。
もっと言うと大きな有機体の一部。
そして死ぬということ自体は、元居た世界に戻るというだけのことなので
悲惨、悲劇、悲しい、虚しい、気の毒、不幸・・といったネガティブなものと一切無縁の出来事なのですよ、本来。
そんなことをお伝えしたくなった年末でした。
なので死んだらどうなる?と心配したり、気の毒!とか思う必要なく
死んだ後も生きている時も、あちら側の世界に関しては自分のチームメンバーが良きに計らってくれるので
自分は今世で出来ることを精一杯堪能すればいいってことですね。
Three Boats in Harbor, San Vigilio, John Singer Sargent, 1913
そういえば日本では三途の川を渡るイメージだけど、文化によって臨死体験なんかに出て来るシーンって全然違うのね!
という記事が随分前にあったので、次回それをちょっと紹介してみましょう。
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