先日も貼りましたこれ。
カラヤン+ベルリンフィルによるベートーベンの第九「歓喜の歌」
用があって先週は何度も聴いていたのですが、そうするともうアドレナリンが出っぱなしで寝られなくなるのですよね。
まあそれが原因ではないけれど昨日は胃痙攣で死ぬかと・・・お陰様で処方薬で今はこうしてPCの前に座ってられるくらい元気になりました。
これ前もなった時思ったのだけれど、医学が発達していたなかった時代にこれなった人はあっさり死んでたでしょうね。それくらいの激痛。
死ぬのはいいけれど痛いのも苦しいのもパスでお願い。
さて。
1回の人生で急激に尋常じゃない大成功する人っていますよね。
あれ・・・結論から言うとその人の周りは死屍累々じゃないか・・・?と思わずにはいられない。いや、実際に命を落とす人がでなくとも、死にながら生きるようなことになるといいますか。
もちろん親も含め先代がものすごいマイナスな経験をしていて、その反動でというのもあります。しかし極端すぎる大躍進は一人の犠牲では足りないというか。
本人は頑張ってるんだよ。それは分かってる。
でも人間も自然界の一部であるということを考えると、あまりに短期間に極端な大成功をするというのは大変不自然なのです。その目的に向かって人生全振りの猪突猛進となると、自分のことですら心身ともにバランスを取るのは難しい。況や身近な家族に気を配るなどということをや。(表現ややこしわ)
無形の世界(精神)と有形の世界(肉体をはじめとする目に見える世界)を適度にバランスを取りながら進むということは、極端すぎる結果は出ないということ。なのに有形世界のみを見て周りはどうでもいい、となるとそのしっぺ返しが自分に返ってこない場合は身近な人にいくんだよなあ・・。
そんな時どうすればいいかというと、これはもうやはり自分の影で犠牲になってくれている身近な人、影の黒子役をしてくれている人、(運の)縁の下の力持ちをしてくれている、子どもであれば自分が構ってあげられなかった分が周り周って学校でいじめられているなどということがあれば、そこにちゃんと意識を向けて心を配ること。絶えず配慮を怠らないこと。自分は地位・名誉・お金さえあればと思っているかも知れないが お金じゃないのですよ。
本人の立場に立って心から気にかけてあげるということ。
これが愛。これがなかなかに難しい。できない人はとことんできない。自分のことしか考えられない。
しかしバランスよく進むということはその状態が既に 自分の人生を目的に全振り からどんどん離れていくので、極端な大躍進とはならない。
全てバランスなのです。
自分というやじろべえがいる。バランスを崩したら終わり。
でも極端な生き方をしているのにバランスが崩れないということは、そこが崩れないように支えてくれている誰かがいるということ。
自分を含む家族というやじろべえもある。
家族の分まで運を喰って社会的に華々しくナンチャラになったところで、見えない世界で周りの運気を食い荒らした結果なのであればその人はその人生で大きな業を追うことになる。早い話が運のどデカい借金を問答無用でやっちまった、ということ。
こういう時社会は華々しい道を歩く人物を誉めそやし、周りの家族に何かあれば汚点のように扱うけれどそうじゃない。目に見えない世界ではその身近な人が一心に苦しいところを受け持ってあげている係。徳を積んでいるとも言える。けれどもそれも自分のキャパを超えると家族は崩壊、各メンバーも自分の人生が崩壊するところまで行きかねない。
自分の人生も家族も家系も、それぞれに器があります。その器もレベルも時間をかけて揺らぎながら少しずつ大きくなったり小さくなったり、レベルが上がったり下がったり。変化は自然のそれと同じ。
なので自分が調子が良い時ほど、家族をはじめとする周りの人たちに気を配りたいものですね。
(と胃痙攣で調子が悪い私が言うのも変ですね)
本日もお読みいただきありがとうございました。
善きサマリア人(ドラクロワを模して)1890年 by ゴッホ
コメント
連投、失礼します。
最初に[質問]と書いておきながら、結局その内容を書いていませんでした。
ごめんなさい。
佳代さん いつも興味深く拝読してます。
ありがとうございます。
この内容についての質問なのですが
常に自分とその妻のことしか頭がない人というのは、やはりバランスが取れていないと思うので、つまり他の家族に対して心配りが出来ていない状況だと私は思うのですが
その場合、この人とその妻(舅と姑なんです、実は)
距離をとってほっておけば良いと思うのですが、2人とも高齢ゆえ何かと私たち夫婦を頼ってきます。
それなのにその頼る事を、2人は当たり前と思っている。
感謝の言葉も口だけ。その意識が私は2人から伝わってきます。
夫の弟夫婦は距離を取ってこの2人に近づきません。
それも正解だと思うのですが、私は高齢の2人に手を貸さないことで自らに負の感情を待つのがイヤ!なので 私の出来る範囲で高齢の舅と姑に手を貸します。
自分のこと、自分たちのことしか考えていないこの2人がどんな結末を迎えるのか
そしてまた私も自ら知らぬところで、実は人さまに迷惑をかけているのかもしれない、だとしたら自分を謙虚にさせてくれる事象として、この2人が私の目の前にいるのかなぁなんて考えてしまいます。
気を配る、目を配るって、簡単なようで実は奥が深い事かもしれません。
自分たちが良ければそれでいいという態度を目にすると
おいっ!ジジィ!!!!と憤怒でいっぱいの私の心に
佳代さんの今回のブログが冷水を差し込んでくれたように思います。
家族親族に難しい人がいると大変ですよね。お察しいたします。
そのお二人はこの記事でいう『短気で急激に社会で成功を収めた』に当たりますか?
もちろん成功の段階が0か100かではなくグラデーションで様々なのですが、【尋常でない】極端すぎる出世などは必ず近くに、もしくは次の世代、2世代後などにその反動を被る人が出るなあと。
それとは別に他人との境界線をちゃんと意識できない人、他人の領域にズカズカ入り込むことが失礼どころか自らの権利であると勘違いしている人とはその弟さんのように距離を置くのが一番ですね。そういう人は治りません。