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運気は寄せては返す波、一方通行ではないのでやさぐれなくていいのだ

 

昨日の記事の続きっぽくなりますが

ドルトムントで私は確かに命のかけらを頂いた
帰り道、まだ私はその世界から覚めていなかった。その美しすぎる世界の欠片は確かに私の胸のあたりに柔らかく暖かく煌めく光となり、そっと宿っていた。あれは命そのものだ。

 

異次元の世界から “この世で生きる” ということに思いを馳せる時、私は鑑定に来て下さった方々を思い出します。

その中には本当に辛すぎて〇んでしまいたいと思い、実際に試してみたけれど上手くいかなかったから今も生きているのだという方もいらっしゃいます。1人ではありません、何人も。

 

そういう方々が私に会いに来て下さったりZOOMで鑑定を受けて下さったりすると

生きていてくださってありがとう!

そして私にお話ししに来て下さってありがとう!!

と問答無用で思うのです。とても嬉しい。生きてお会いできて良かった!と。

それは脊髄反射のようなものです。

 

もちろんご本人にはそんなこと派手派手しくお伝えしませんけれどね(いくらストレートの調舒星人とはいえね)。そんな喜びを爆発させて大っぴらに表現したら、大分変な人で鑑定前から警戒されるじゃないですか?

 

うるせー

 

私は普段から自分は長生きはしないと誓っていますし、死ぬというのはあの世から

よっしゃ、今回の人生やることやったな。OK、卒業していいぞ。帰って来い。

合格通知が来たことに他ならず、むしろめでたいことでありお喜びごとやぞ?とこっそり思っています。なーにが忌事やねん?テキトーなことばっかり言うとるわホンマに、と。

(注:誰かが亡くなるということに対する哀しみの感情は全く否定していません)

 

けれども。

だからといって

したいのなら、そこは勝手に飛び級してさっさと(力ずくででも)人生卒業したらええやん

というのはどうも違う気はしています。

 

そこにきて上記の脊髄反射

椅子に座って膝を前からコツンと叩くと脚がぴょこっと前に出るあの反射作用と同じように

 

 

私に起こる思考を挟まない反射作用にも必ず意味があるはず。

それは生きて会えるということに意味があること。

生きているということ自体に意味も価値もあるということ。

そこに疑念の余地はないのです。

 

そしてね、私くらいの年齢まで生きると算命学を知らずとも分かってきます。運には波があるということが。

波は寄せては返すをリピートするのであって、返す返す返す・・・とこれだけを延々なんてありえない。全力でそっちに持って行こうと思えども、まあ無理ですわ。

なので

生まれもハズレ、あれもハズレこれもハズレ、頑張ってもどん底、自分の人生ぜーんぶハズレの寄せ集めやないかーい!!

とブチギレたくなる気持ちも分かる。身近なちょっと or 随分恵まれた環境の人と自分を比べてずーんと落ち込んだりもしますよね。

 

でもそれが運気の切り替わりだけで突然気が楽になったり、環境がガラッと変わったりすることってあるものです。あるんですよ、今までと同じように過ごしてるのにパタパタと周りが音を立てて変化して行く時が。

自分の人生どん底一色やろどーせ!

のつもりで生きているところにそれが来たら、そりゃもう

 

ナンダコレ・・・

ユーカリやけ食いしてる場合じゃねえ!

 

となります。

 

それを1度経験して欲しい。1度経験してしまうと、またどん底がやって来ても『運気は必ず変化して行くからな』と思い出せて、やさぐれない。

とりあえず人生勝手に飛び級して強制卒業するのはもう少し後でもいいかな?

と思えるようになります。

 

そう思えたらしめたもの。

あとは好調運気が来た時に波に乗れるように日々邁進するのみ。

大丈夫、できますよ。

 

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本日もお読みいただきありがとうございました。

 

春 by Claude Monet, 1872年

 

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