最近街を歩いていて見かけた『ホ』なスニーカー。
お値段259ユーロ≒42735円。皆様、一足いかが?
さて。
今Twitter(現X)で話題のこれ、ご存知でしょうか。
映画の賞授与式で昨年受賞したアジア人2人のプレゼンターが、今年の受賞者にまるで空気のように扱われている、これぞアジア人差別だ!ということで燃え上がっている。
ロバート・ダウニー・ジュニアとエマ・ストーンがケ・フイ・クアンとミシェル・ヨーを無視するのは偶然かもしれないが、米国のアジア人にとってはよくある光景だ。あたかもヨーとクアンが、プレゼンターのために銅像を持っている顔のない助っ人として見られているかのようだ pic.twitter.com/AwhgvmuJ8c
— Miki Dezaki (@MikiDezaki) March 11, 2024
白人圏に住む日本人(私が見かけたところでは韓国人も)がこぞって
私もこの経験がある、というよりこれが日常だ
完全になきものとして透明人間かのように扱われる、スルーされる
とその屈辱を訴えている。
これは経験した人にしか分からないと思う。
本当にこれは欧米圏(※)に住むアジア人の日常だ。
※ 欧米という雑過ぎる括りは私は基本使わないが、今回は当てはまるので使っています
日本という同胞に囲まれた国から遠いヨーロッパに来てこれを経験すると、それはもう衝撃だ。
自分は果たして何か失礼なことをしただろうか?間違ったことを?何故存在を丸ごと無視される?
Portrait of Jacqueline Roque with her hands crossed by Picasso
と大変混乱する。その原因を自分の内に探そうとするだろう、良識ある日本人であれば。
そしてそんな扱いをされると当然ながらとても傷つく。精神にかなりの打撃を受ける。
私のドイツ語が拙いからでは?と猛烈に勉強して、ネイティブと思われるくらいには話せるようになった。
思うところを細かいところまで正確にというのは日本語でも難しいので、況やドイツ語をや、ではあるが。
更にドイツ人と会話する時は目を見て、とにかく大きい声で、日本人にしては太々(ふてぶて)しい感じで大きな態度で渡り合うと、どうでもいい店でのやりとりなんかで舐められることはない。
ただ私は日本でもキャッチやアンケートの人に全然声を掛けられないタイプなので、人によっては同じようにしてもあまり変わらないこともあるかも知れない。
これが差別というのであれば──もちろん差別なのだけれど──アジア人差別なんて日常茶飯事、あちこちにある。
私はドイツで学生時、キャリアを積むべくあちこちの国際コンクールを受けていた。
その時師匠が言ったのは
残念ながらここでは『外国人なんぞに音楽が分かるかよ』という差別はある。
だから見た目で明らかに外国人である君がコンクールで賞を獲ろうと思ったら、“白人ならこのレベルで受賞” のレベルを遥かに超えるレベルでなくちゃ難しい。大学の試験の点だってそうだよ。
だった。
なるほどそうだろうなと思ったのを覚えている。
ただ私がここで言いたいのは、差別があって辛いんですわ~ということではない。
そして間違っても『私は凄いんだぞう』ということでもない。しかし私の経験から私が思うことを書きたい。
上に書いたように私はEUの様々な国で国際コンクールを受けたり国際的な講習会に参加したりした。
そこでも最初は空気だ。私の存在は空気。こちらから挨拶をすれば返してはくれるが、それ以外は皆目も合わさないし存在しないものとしてスルーされる感じが基本。
けれども一旦舞台で演奏して帰ってくると途端にみんながキラキラの目で駆け寄ってきて、こちらの目を見て握手を求められ
あなたの演奏は素晴らしかった
から始まって
今どこに住んでるの?
どこから来たの?
楽器はどれくらいやってるの?
どこの大学に行ってるの?
ああ〇○先生ね、あのクラスにいるのね!
このあいだの△△の講習会に行ったんだ?だったら◆◆って子に会ったんじゃない?僕の友達なんだけど
えっ、入試でそんな強いプログラム持ってったの?そんな人いるんだ・・
その後は皆との会話がずっと続くという経験をした。完全に皆の輪の中に入っている状態。
これはどこに行っても毎度そうだった。
差別という言葉で不快な事象を全部まとめるのは便利なこともあるけれど、ちょっと雑な気もしている。
というよりも私はその『差別』現象の奥にある、そういう態度をとってしまう人たちの心の奥には一体何があるのだろうか?とそこにとてもとても興味がある。その心の内をもっと分かりやすく分解して説明できるはずなのだ。
人間には自分と共通点の多い人に共感を抱く性質がある。
それは日本に居ても出身地が同じ or 近い人の方が、全然離れたところから来ている人より何となく話しかけやすいな♪みたいな感覚を抱くことがあることからも分かると思う。
それを思うとEU人から見たら極東の島国から来た、文化も言語も特に見た目も全然違う人間というのはかなり離れた存在だ。共通点が薄い。共感を抱きにくい。どう接すればいいか分からない以前に興味を持てない。
私が舞台で演奏したあといきなり皆の輪の中に入れたのは、聴いていた皆が私の音の世界の中に
ああ、この人(=私のこと)は私と同じところを見て生きている!
と共通点を強く感じたから。
共感を抱けるほど共通点のない未知の存在に人間が抱く感覚は恐怖だ。
漠然と怖い。どうしていいか分からない。でもそれを見せて舐められたらこっちの負けだ。だから威圧的に振舞う。もしくはスルーする。これが差別の根っこなのだろうと思っている。
もちろん分かりやすく、異人種に害を加えてやろうという人も多いだろう。けれどもそれだって心の根っこにあるのは自己防衛本能から来る恐怖だ。
Weh dem, der aus der Reihe tanzt(出る杭は打て)by Qint Buchholz
でもそれが常習化してしまうと、互いにすり寄って理解し合おうという土俵に乗ることすらなくなるので、それがいわゆる差別という社会に根強く巣食う疫病のようになってしまっているのだろう。
そして差別をする側はそれが日常生活に当然のものとして溶け込む常態になってしまっているので、自分が相手に礼を失する態度をとっているとも思わなければ、自分が何らかの恐怖心を抱いていることに気付くことなんて有り得ない。だってそういうものなのだからと。
ロバート・ダウニーJr. やエマ・ストーンがあまりにさらっと自然に前年のアジア人受賞者をスルーする様子もそこから来ている。
あともう一つある。
何故そこまで恐怖心を抱くのか、それを隠して勝たなければ!自分の方が上でなければ!となるのか。
こういう心根にある問題の原因を探っていくと必ず行き当たるのが、戦争という人類が負う大きな傷。
これに関連して書きたいと思っていることがある。
皆さんは Lebensborn(レーベンスボーン)というドイツでナチスが組織的に行っていた政治的プランをご存じだろうか?それも含めドイツ人は民族として大変大きな精神的傷を負っているとよく思う。その傷は現代を生きるこの国の人たちにも散見される。少なくとも私の目には。
そしてこういうテーマを考える時、私の関心事は決まって
国籍を問わず戦争のような想像を絶する経験を何年にも渡ってさせられた人たち・民族の精神的な傷というのは、完治するのに一体何世代の時間を必要とするのだろうか
ということ。
これに関してはまた時間のある時に書くかも知れません。
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Witch Flying Over A Hill by Tim Burton 1958~
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