算命学を勉強していてよく思うのは、算命学では愛がスコーン!と抜けているということ。愛は観察対象にしていない。対象に出来ないからなのかもしれない。
いや、待て。
直接『愛』という言葉では出てこないけれど、実はこれこそがそうなんじゃないの?という部分も出て来るので書いてみます。
前回の記事で
禄存星があるからといってどんな人に対しても愛に溢れる博愛主義者だなんてことはないと書きました。禄存星があろうがなかろうが、愛がある人はあるし、ない人はない。
それはつまり両者の乗っている階層が違うから。
十大主星の乗っている階層と、愛の階層は異なる。
愛は、十大主星だ十二大従星だ、十干だ格入りだ云々いうものが機能して行くのに必要なもの。
人間の身体がどれだけ丈夫に健康に生まれてちゃんと食べて寝て・・していても必要最低限の空気がなければそこで力尽きてしまうのと同じ。体にとっての空気と同じくらい大切なもの。
家を建てる時に内装を洋風にしますか、和風にしますか?みたいなものを十大主星だとすると、その家の土台、基礎の部分が愛。愛が足りていないと、いくら最高の健材を十分用意して、センスのいい建築家にデザインしてもらって素敵な内装屋を揃えても、その素晴らしさは続かない。基礎から崩れていく。
その愛というのは、生きて行く上で必要最低限の量というのがある。
そして愛は成長過程で受け取った分だけそれを自家発電的に生きるエネルギーとして回転させていくことができ、また周りに、そして次の世代に受け渡していくことができるもの。
もちろん理想は親がまともで、ちゃんと子供に向き合って、日々愛を注いでいくこと。でもそれがなくとも、祖父母や近所のおじさんおばさん、先生などちょっと遠い関係性の人であってもちゃんと自分を見てくれて、まともに気にかけてくれて、そこから時々でも愛を貰えるならその愛だって一生涯生きる宝物となる。
愛は受け継いでいくもの。ダイレクトに受け継いでいくしかない性質のものなのだろう。
愛というのは、生きて行く上で必要最低限の量というのがあると書いたけれど、じゃあ十分に与えられず大人になってしまった場合はどうか。
戦時中食用が足りなくて空腹のあまり食べ物を盗む人がいたという話が多くあるけれど、愛も目に見えないだけでそれと同じ、無意識に誰かから奪おうとしてしまう。それも『愛をくれ』と要求している自覚があればまだいい。最も悪質で大きな禍根を残すのが自分の子供から愛を搾取すること。そこには奪っている意識も良心の呵責も一切なく、毎日延々何年も何十年も寄生虫のようにチューチュー吸い取り続ける。
子供というのは100%親が好きで、親の幸せのためなら何でもしようという健気なところがあるけれど、その素直さ、一生懸命さにつけ入りあの手この手でこき使い、小突き回し、痛めつけ、使いたい放題こき使える奴隷として搾取し、にもかかわらず自分がしていることにも気づかず、あろうことか『子供のために躾けてやっている』などと嘯く。
本来成長過程で日々適度に栄養摂取していないと体が十分健康に成長できないのと同じように、本来愛を浴びながら精神を育むべき時にもらうどころか与えて与えて・・・それでも足りないと罵倒され、ひたすらに削り取られ続けると、その被害は甚大なものになる。
これはネコチャンたちのご飯の奪い合い。
Cats Fighting in a Larder by Paul de Vos
そして十分愛を注がれなかった子は成長してやはり “ 生きて行く上で必要最低限の量 ” を満たすべく、周りから奪おうとしてしまうことは多い。負の継承。負の拡大再生産。
“ 生きて行く上で必要最低限の愛 ” を満たそうとする穴埋め行為、その発現の形は人によってそれぞれで、アルコール依存やギャンブル依存、家族への精神的虐待やDV、教育虐待にネグレクト、不倫など・・・多岐に渡る。形はどんなであれ、煮詰まった根強い問題の根っこは “ 本来得るべき愛の欠如 ”。
算命学でよく出てくる家系の因縁というのは、突き詰めるとこの愛の階層の話なのだと思っている。
家系からはみ出した方がいい命式、養子に行くといい命式、まあ親族に助けて貰ってもいいけれど距離は置いた方が良い命式など・・・これらは
家系にいては愛というエネルギーを必要なだけ得られないよ
むしろ他人と絡んだ方が愛を貰えるよ
の意味がある場合も多いのだろうと思う(100%ではないにせよ)。
世代を超えた愛の搾取の連鎖からくる飢餓状態が煮詰まると、物の怪のようになってしまう。その先には家族での命の奪い合いや、外に向けた犯罪行為の可能性まで見えてくる。
そんなことにならないように、まだ形だけでも事なきを得ている今の状態で全く無関係の土地や人に混ざって生活する方が、血族の近くで生きるより断然マシですよ!という人は実は意外に多いのかも知れないとよく思う。
それはつまり
実家や家系には救いがなくて残念ですけれど、一歩外に出れば外の世界は身内より優しいですよ
あなたは外の方が希望が持てますよ、外の世界には救いがありますよ
ということでもある。
愛の階層の話は算命学の因縁話に直結するということに間違いはないと思う。
本日もお読みいただきありがとうございました。
こちらは素敵空間に鎮座するネコチャン。
Gleb Goloubetski
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