ああ~ひっさびさのぉ~ひっとりじかんんんんん~おわああああああ~~~!(狂)
秋休みまで2か月を切りました!
そう、夏休みが終わって平常運転再開なのですよ・・・また子供の学校や習い事の送り迎えに追われる日々です。全然一人になられへん・・なのでブログになかなか辿り着けないこの葛藤。いや、さらっと特に何ということもない軽い話題をちょくちょく更新しているブログって多いですよね?あの楽しい感じでしょっちゅう軽く更新出来ればいいのですが、年を取るごとに ただですらうるさい私の代表星=調舒星 がますますこだわり強く、表現の星♪というより
The 表現の番人!
どーん
とまさにこんな感じで仁王立ちしておりまして、どうでもいいようなことでお茶を濁してPV稼ぎに記事UPしようもんならこの大きな手でばっちこーん!とどつかれかねない勢いなのです。ぅぉおおりゃあぁぁオマイは何やっとるんじゃー!と気炎を上げ、そこに牽牛星2人組が もっと内容にプライド持たんかーい!と加勢してくるので堪ったものではありません。これ多分調舒星ある人は分かると思う。
さて本題。
どんな人もその人の後ろには、目には見えないその人固有の無限の世界が広がっています。それぞれに特有のカラーがある。それは千差万別で、たとえ似ていても厳密には完全に同じ世界にはならない。指紋のようなものです。本当はそちらが人間の本体。そちらが本質。
その本体であるその人の本質の世界がこの世で知覚され得る形になったのが、今私たちが目にする人間の肉体であったり、言葉であったりするわけです。
( 紙面の都合上後ろに広がる世界が小さく描かれていますが実際は無限に大きい )
つまり私たちが『 あの人は〇〇だね~』という時、大抵はその人の本質の世界が この世的に現れ出たごく一部 しか見ていません。だってその人の広大な本質の世界は五感でキャッチできないようになっているから。私がこれに気付いたのは子供の頃、音楽を通じて。誰かが楽器を演奏する。そうすると毎度違う曲を演奏しても、その向こうに広がる世界の色はいつも一定。その人の広大な世界がその人および楽器、その曲を介してこの世に現れて来るんだなと。
そして そうやって現れる世界に邪悪なものを見たことがない。大抵は人間の表面に現れる個性より遥かにクリアでキラッキラに美しく、魅力的なものです。
この辺はこの記事や以前にも同じようなことを書きました。
その『 誰かの後ろに広がり確固として存在する、揺らがない広大なその人固有の世界 』を一度感知してしまうと、この世的な人間を認知するための区分、男性なのか女性なのか、肌の色や国籍は、イケメンか美人か、仕事は何でいくら稼いでいるのか、学歴は・・・とか『 それ必要??』となります。というかその辺が見えなくなります。
( いや、この世のシステム的便宜上そういうレッテル的なものが必要なのは頭では分かるのだけどね )
それらこの世的な事象は全て、実にあやふやで不確かで、すぐひっくり返せるもの。そんなものを何故みんなは確かな根拠としているのかな?と不思議でならないことが多い。
また、私は音楽を通じてその存在を知ったと書きましたがその音楽に言葉が乗ると、つまりポップ、歌謡曲みたいな(?)ものはその世界がストレートに表れない。濁る。言葉は恣意的に本質の世界を歪めて伝えることが出来るから、その顕現の際、壁になり得る。言葉というのはこの世特有のものだから。だからこそ五感を頼りに生きる人間は( 私もですが )その奥の世界を感知するよりも、分かりやすい言葉の方に引き摺られるから。
最もその世界が混じり気なくストレートに表れるのがソロの楽器演奏であり、絵画。言葉を伴わない表現。きっとパントマイムとかシングルのテニスとか( 芸術表現ではないにせよ )そういったものにも現れているはず。
とまあこんな感じの私にとっては当たり前で最も大切な話は、今までにも時々ブログに書いて来ました。
この人間の本質(であるところの世界)の話を書くたびに思い出すことがあります。
実はここからが本題。
以前、この人はそういう話が出来る人なんじゃないかな?という人に、算命学を絡めて少しそんな話を振ってみたことがありました。よく『 人間、目に見える部分じゃなくて中身だ 』みたいなことをブログに書いている人だったからです。
しかしその瞬間その人の口から出た言葉は
人の本質なんて知ってどうするんですか?
それに佳代さんにとって人間はモルモットか何かなんですか?
でした。聞いた瞬間仰天しましたね。
こいつ、いい人アピールが極端に上手かっただけで普段からこんな風に人間を捉えてる奴だったんだ!?と。
ブログでは家庭に恵まれない人を理解できる自分、戦時中の辛い思いをした人の環境ほかに思いを馳せ共感する自分なんかをしょっちゅう書いていましたが( まあ文が上手いので私もそれにひっかかったわけですが )ただ自分上げのための小道具として弱った人を利用するタイプ だったのか!と。そういう弱者に施しらしきことをして強者感を得て、更に承認欲求も満たそうとする人は結構多いですが、その人はその黒い部分のカムフラージュが抜群に上手かった。
私が人を見る時常に気を付けていることに
ふと反射的に口を突いて出る言葉にその人の本質が現れる
というのがあります。反射的に、咄嗟にですよ。なのでこういうブログみたいな何度も推敲できる表現はそれにあたりません。
例えば怒りを表現する時に罵詈雑言が滑らかにペラペラと口を突いて出る人というのは、普段から心の中、頭の中でそういう言葉を繰り返している人。循環させている人。そういう言葉にとても馴染みがありそういう世界観の中で生きているということ。
皆さんは咄嗟に口を突いて出る言葉は日本語だと思います。それは心でも頭でも、たとえ口にしていなくとも常に日本語で考えているから。英語を6年以上勉強してある程度知っていても、普段から使い込んでいなければ咄嗟に口を突いて出てくることはありません。それと全く同じなのです。
モルモット発言のその人は、普段から『 周りの人間は自分の人生の駒であり利用するアイテム 』という視点で生きていた。なのであまりにも自然に口をついてそういった言葉が出て来た。きっとその発言によって『 自分なら周りの人をモルモットのように扱わない、俺様はお前より良く出来た人間だ 』とマウンティングし、こんな事ズバッといえちゃう俺様カッコいい♪と自己陶酔し、私を凹ませたかったのでしょう。
ただ、算命学を始めてから四六時中算命学について考えている私でも、誰かを、そして誰かの人生を実験台のモルモットのように考えたことはありませんし、大体そんな発想一体どこから出て来るんだよ!?としか言いようがありません。そもそも算命学で誰かを実験台になんてできませんしね。
なのでその人には残念なことながら思惑通りにはならなかった。その人は私に真っ黒い醜態を一瞬で晒し、汚いイメージを強烈に残しただけになりました。
よく飲食店やスーパーなどで店員さんに横柄な態度を取ったり、暴言を吐く男性とは付き合っちゃいけない、結婚しちゃいけないとか言われますよね。あれも同じ。人というのは常日頃から自分の内側で繰り返す世界観をふとした拍子に現すものです。それでも普通は見知らぬ人、初対面の人にはとりあえずでも猫を被って丁寧に接しようとするもの。それすら出来ないということは、一旦仲良くなってしまうとその他人に対するぞんざいな扱いがこちらにも容赦なく向かってくるということ。
逆に普段から自分一人でも楽しいこと、明るいこと、未来が開けるような視点で人間や世界を捉えている人というのは、出てくる言葉もものすごく清々しく人に勇気を与えられるものになります。そうすると皆その人と一緒にいると気分がいい、なのでその人自体が人間パワースポットのようになるのです。
私の命の恩人である楽器の師匠がまさにそのものでした。
だからこそよく彼女を思い出し、私も年を重ねるごとに彼女に一歩でも近づきたい・・・と思ったりするのです。
Pierre Bonnard (1867-1947, Frankreich) 秋の新学期、学校に行く子供たち。
コメント
今日の記事、目から鱗でした!
ちょっと昂揚しております。
私は現実的な命式で表現星皆無(笑)、
佳代さんと物の見方がまるで違うんだろうなと思ってます。
…現実的だけど、胎がすこーし働きを見せてくれるところもあるのです。
一度でいいから佳代さんの眼で絵を見てみたいと以前にコメントしました。
それは無理にしても、今日の記事ではかなり“理解”に近づきました。
オーケストラやポップスを好まないっていうのと
昔の、工房で制作し発注者のいろんな意図が乗っかっている絵画を好まないっていうのは、
根っこが同じなんですね〜。
現代絵画を好まれないのも大納得です。
やはり同じ絵画でも私が見ているものとは別モノです!
レーピン…日本でのロシア美術展覧会(結構前から開催されていた)でもサンクトペテルブルクでもモスクワでも現物をたくさん見ているのに、そこまで絶賛なさること全く全然ピンとこないのです(๑˃̵ᴗ˂̵)
が、今日のボナールの小品。
数年前東京で一度見ました。
覚えているくらい好きな絵でした♪
同じものを見ても人によって受け取り方が全く変わる、それ以前に観ているものすら全然違うかも、というのが芸術の面白いところですよね。
レーピンは正統派の中の正統派という感じなので、ピンとこない人はおられると思います。
ボナールはあんまり・・・と思っていたのですが、今回ベルリンで他の画家の作品に混ざっているのを何点か見て、凄い良いやん!と初めて良さが分かりました(笑