例えば20歳から算命学を始めて今現在ご長寿ご健康の鑑定士120歳
算命学この道100年ですねん
という人がいたとします。
すごそうです。
たしかにその100年の経験で得た具体例、知識は大変貴重です。
掛け替えのないもので、そこに異論はない。
けれどもたかが100年なのですよ、やっぱり。
算命学を学ぶ人はこの学問がどれだけの歴史を持っていて、何のためにどのように使われ
どの時代にどんな部分が特に深く研究されたかご存知でしょう。
陰陽論や天体の観察からの五行論あたりから考えても、だいたいざっくり3000年くらい。
まぁ3000年ずっと継続していたわけではないにしても。
その歴史の中で特に戦国時代に天中殺理論が研究し尽くされた。
それは東洋の英知の結晶と言っても過言ではありません。
国が国を獲るか獲られるか。
いつ寝首をかかれてもおかしくない戦々恐々とした時代。
敵の攻撃を如何にかわし生き延び、少しでも領地を広げ上に上ることが第一使命であった時代。
そんな命懸けの時代に、戦略のために研究され使われたのも算命学。
少しでも私情を挟んだぬるい判断、間違った研究なんかしたが最後あっという間に首をはねられる時代に
国中のエリート中のエリートが競って研究した学問。
その歴史は数百年どころではない。
その知の積み重ねが算命学。
人間の一生という目で見れば100年も算命学に携わっている経験があればすごい!とつい思ってしまいがちです。
でもその自らの個別具体的な経験なんて、たかだか100年のたった一人の一般人のものに過ぎない。
それもこんなヌルイ平和な時代に生き( 120歳なら戦争も経験するとはいえ )
たとえ間違って鑑定してもいきなり斬首刑になったりするわけでもなく
しかも国境を越えてあらゆる国の人を鑑定したわけでもなく
自身の半径50mや300mという狭い範囲内での事例のみ。
それで真理を得た!と思うなんて言語道断、傲慢不遜もいいところなわけです。
その自分が知っている具体例を勝手に一般化して
自分の周りではこうだったから、この占技はこうなのです
と勝手に占技を変えたり、解釈を変えたりしてしまうとそれは誤鑑定に直結します。
ぬるい時代に生きる私たち一般人が経験したこと、思うこと、見つけることくらい
当時の研究者たちであれば全て検証済み。
何故それくらいのことに思いが及ばないのだろう。
当時その程度のことを想定したり見抜けなかったりするようなボンクラが、国の命運を分かつ判断に寄与できたとは思えない。
私たちが思いつくこと、想像すること、経験することくらい全部先人が網羅して検証している。
それが学問。
だからこそ学問なのであり、だからこそ学問は先人の来た道を踏襲し、尊重し、熟知した上で使わせてもらわないとそれは学問ではなくなってしまう。
算命学以外のすべての学問に共通することですよね。
そこを守れないなら、それはもう算命学ではなく 算命学風味の何か全く違う趣味の世界 になってしまう。
算命学ではこう言われてますけどそれは違って、自分の周りではこうだったからあなたも多分こうですよ~
ってどこに信憑性があるの、それ?という話なのです。
何故そうなるのかを聞かれて
だって自分の周りではそうだったから~
という、それはただの体験談。
算命学でも学問でもない。
先に書いたように自らの実体験、経験は大変貴重で掛け替えのないものです。
それは間違いない。
だからそれをそれとして、自分にはこういう経験がありましたよと経験談として話すのは良い。
私もこのブログによく書きます。
けれども 個別事案を勝手に拡大解釈してまるで算命学の一般原則であるかのように言い、使っていくのはとんでもない間違い だな
なんてちょっと思ったことを書いてみました。
人間って本当にあっという間に謙虚さを忘れて傲慢になるものです。
他人様の人生相談に乗る立場として、自分も注意しないとなと思いました。
Luigi Lucioni (1900 – 1988) First Studio, 1928
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