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東京府(当時)に届出された初の正式な国際結婚当事者の人生は

 

どれほど日本が恋しかったでしょうか。

でも命式を見ると実際、国際結婚にも海外移住にも向いていますし、そのための努力ができ頭脳もある人。

それだけでなく(差別やなんや茨の道だったことは容易に想像つきますが)おおらかで可愛らしい愛されキャラ。これは何気に大きな天性の徳分ですね。

 

などといいつつも大きく二転三転するのが宿命天剋地冲持ちさんの人生の特徴。

 

1914年に始まる第一次世界大戦ではオーストリア=ハンガリー帝国と日本は敵国同士として戦うことになり、光子への差別は強まった。

 

この時代の人はごく普通に生まれ育った人でも歴史に翻弄される人生だったでしょう。

況や超長距離国際結婚をや(泣

 

その後も戦争云々で波乱万丈の日々を過ごすのですが長くなりすぎるので途中割愛。

 

第一次世界大戦後、半分以上の財産を失う。
その後はウィーン郊外で唯一の理解者であった次女・オルガの介護により静養の日々をすごすようになる。


その頃の唯一の楽しみは、ウィーンの日本大使館に出かけて大使館員たちと日本語で世間話をし、日本から送られてくる新聞や本を読むことであった。

 

うわあああああああああ!!

 

分かんねん

分かんねん

分かるのよその感覚!!

 

もうその1文読むだけで息が詰まりそう。

アドバルーンのようにどこまでも果てしなく大きく膨らんで、そして常にのしかかってくる望郷の想い。

 

今でこそ海外に出てもネットがあり、日本語で日本の情報集め放題。オンラインでしかも無料のリアルタイムで海を越え故郷と繋がって話し放題。

気持ち的には大分距離は縮まった。

 

でも昔は。

私が渡独した頃ですら、どうでもいいような1冊の古くなった日本の雑誌を皆で回し読みし、一番最後のページにある

 

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みたいな全く興味のないどうでもいいページまで隅々まで舐めるように、1文字も見落とすことなく読み尽くすほどには日本語に飢える日々

私だけでない、皆そう。

それでも電話で近くの友人知人と日本語で話しを出来たり、乏しいながらも日本の食材を皆で持ち寄ってご飯を食べたりでなんとか日本渇望症をなだめつつ日々を生き延びていたわけですよ。

 

クーデンホーフ光子女史

 

それが。

光子さんは来た時から『子供のためだかんね?』と日本語を禁止され、日本食はなく(推定)、日本との国際電話もなし。日本人の友人知人もほぼいなかったでしょう。

 

ダメだ、書いていて酸欠になりそう。

正直短いWikiのページを読むだけで何度も心が押しつぶされそうになりましたよ。涙出るし。

どれだけ辛かっただろうか・・・・

 

そして

 

1939年9月に始まった第二次世界大戦後はドイツ難民として中央ヨーロッパのあちこちを放浪した
1941年8月27日、光子はオルガに見守られながら息を引き取った。

ついに日本に帰ることはなかった。

 

うわああああああああああ・・・・・・

 

やばいやばいやばいやばい

つらいつらいつらいつらい

 

だだだだだダメージが、精神的ダメージがすごすぎる・・・

 

硫黄島とかガダルカナル島なんかに日本人が行くと(行ければですが)、その地で散華した日本の英霊が

祖国に帰りたい、一緒に連れて帰って下さい

とくっついてくるなんて話がよくありますよね。

 

 

こちらに長い日本人の友人といると

私らあんな風にならないように注意しないといかんよな

でも大丈夫だろうか?

なりそうやんな・・

みたいな話になります。

 

そんなわけで光子さんの一生を思うと、高貴なファミリーに嫁がれてお金には何不自由なく生活できたとしても(実際彼女は食べることと財には困らない食禄神格)祖国に1度も帰れないまま人生を負えるなんて、そんな拷問ある!?と何度も思わずにはいられませんでした。

 

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本日もお読みいただきありがとうございました。

 

それでも光子さんの人生に幸せな瞬間が沢山あったことを祈りたいと思います。

 

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