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『幸せの形』の呪い

 

10月に東京でお茶会を開催いたします。お席まだございます。

2024年10月 算命学的茶話会in東京 お申し込みフォーム
算命学的茶話会in東京のご案内動画です。未視聴の方はまずはご覧ください。 お申し込みフォームはこのページの一番下、緑の枠で囲ってあります。 2024年10月 算命学的茶話会 in 東京、日時(各回4名様まで)  10月19日(土)13時~1...

 

本日はこちらも素晴らしい秋晴れで日中24度まで上がります。ドイツは晴れると本当にこんな感じにキラキラに美しいのです。

Stepan Nesterchuk

 

はいはい、もう冬なんでしょ

と心中やさぐれていた私に柔らかく差し込む明るい光はありがたいものです。でもこれもこの数日で終わりだなあ。

 

しかし!

日本ではまだ39度のところがあるとか!?

10月に一時帰国する時は一体どういう服を持って帰ればいいのですか?って毎度同じ悩みを抱え暖かめの格好をして飛行機に乗り、東京で一歩踏み出た途端に

 

ぅあっつ!真夏やこれは、暑い!コート要らん、暑い!

 

ってなるのですよね。

 

 

などと書いている間に気付けば週末を迎えました。今週は忙しかった・・・

週末が来ると毎回

子供の学校の先生から連絡が来ることはない

習い事の送り迎えもない

お弁当作らなくていい

宿題のチェックもテストの準備チェックもない

な~んにもなぁ~いぃぃ~♪

と万歳したくなりますね。

 


 

 

さて。(相変わらず前置きが長い)

幸せの形。

呪いだよなあああ!

とよく思います。

 

小さい頃から成績良く

文武両道

習い事なんかでも頭角表しちゃって

いい大学に行き

名のある大きな企業に正社員で就職し

〇歳までに結婚し

〇歳までに子供は◎人

〇歳までにナンチャラというポジションを得

〇歳で家を建て

〇歳までに貯金は△△くらい

〇歳くらいには子供が結婚し

〇歳には孫△人 

〇歳にはナンチャラというエライ賞を獲る 云々

 

これらの王道に乗っていれば素晴らしくて幸せだよねえ!という呪い。

人間として生まれてきて何を基準とすれば分からない若い頃は、何となく世間一般の言う幸せの形を追う。そうなのかも知れないと。けれども追ううちにそれだけが幸せの正解なのだと外からも自らも洗脳が進む。

これは苦しい。これは悲惨だ。

 

 

その進み方と持って生まれた宿命がほぼ相違ない、ズレがないのであればその人はそのまま行けばいい。自分でもあまり矛盾を感じず、その路線で幸せを掴めるはず。それは素晴らしいことだ。

 

けれども宿命は千差万別、十人十色。その似非正解的ルートとは全く方向も次元も異なる生き方こそあなたにとっては自然で、幸せを見つけられますよという超個性の命式、片寄った命式もある。

 

マズいのはそういったメインストリームに乗るはずのない命式、超個性の命式の人が無理して頑張ってメインストリームに乗れてしまった場合。乗れたのだから形はついてくる。周りには良しとされ褒め称えられるかも知れない。その瞬間だけは『これで良かったのだ』と思う(かも知れない)。

 

 

けれどもどうだ?

心の奥底でその人物はその人生に納得できているのか。

これぞ我が人生、我が意を得たり!だろうか?

形の上では良しとしながらも、日に日に大きくなる『これじゃない、これではいけないのではないか』という違和感を全力で押し潰し見ないことにする。

何とも幸せを感じないまま自分を騙しだまし、そのいわゆる『幸せの正解』舞台の上で作り笑いとともに幸せダンスを踊り、心身ともに疲れ果て家に帰り、家庭で濃厚な不幸感を瘴気のように吐き出し続ける。

 

挙句の果てには『人生とはそういうものである』などと嘯き始め、何とかその納得のいかない人生を少しでも正当化すべく、子供にまでそのルートを強制する。

そこにある本音は

 

このルートに子供を乗せて、社会的に成功させ、周りにまたちやほやされたい。

そしていつか『今の自分があるのはあなたのおかげです、私は幸せですありがとう』とでも言われれば、自分の今のこの不本意炸裂せんばかりの人生も意味があったことになる、間違っていなかったと。

 

と今の自分の在り方を正当化する道具に、子供をしてしまいかねない。

『お前のためを思って』などとそれらしいラッピングで本心を覆い隠し。

そこに自分の人生を全力で生きる自分の本心などない。

 

 

自分を見つめる勇気すら持てない親が子どもという一人の人間を真正面から受け止め、しっかり見つめることなど到底できるはずもなく、ぐだぐだのまま形だけを追って時をやり過ごす。

そこには美もなければ幸福もない。美しい人生ごっこ、美しい家庭ごっこ、幸せごっこがあるだけ。中身はヘドロ状の不満の詰まった空洞だ。

 

形も心も満たされているのなら、そこには幸せがある。

けれども形を成すのに、そしてそれをキープするのに大変な思いで自らの『不本意』を押し殺して、見なかったフリをして生きる人は、その形が社会的に評価される物であればあるほどそこにへばりつく。執着する。

そして執着すればするほど自分で自分の魂を懇切丁寧に日々●していくことになる。

これは見えない世界での自●でしかない。

 

それでも形に縋りつくのは、たとえ苦しかろうがそれが瞬間的快楽に他ならないから。

自らの心に真正面から向き合い、今までの生き方を一つ一つ丁寧に見返すという、来し方行く末に対峙することはどんな人にも大仕事であり大変な恐怖を伴うもの。何故なら家系の流れ、先祖たちの生き方と対峙せざるを得なくなることだからだ。

それに比べればその時その時の不快を無視して周囲に流されることなど瞬間的快楽でしかない。

 

家系が拗れていれば拗れているほど、つまり先祖に『魂の自●』をしながら生きてきた人が多いほど、代々溜まった澱に立ち向かう後世の責務は重くなる。そりゃあ誰でも投げ出して見なかったことにしたくなるものだ。

しかし投げ出して臭いものに蓋をしても地獄、そこに取り組んでもそこから抜けるまでが地獄。

 

けれども数珠繋ぎになった瞬間的快楽の代償は想像を遥かに超える。

 

そこに気付く人物が家系に1人でも現れれば、そして自分の代で何とか一掃しようと努力してくれるのであれば、その家系は幸いなるかな。

 

この世で生きていく上で、形は大事だ。有形物質の世界はもちろん大切。

けれども形のないものも同じくらい大事で、そこをなきものとして進むと必ず続かなくなる時が来る。

どの人も自分なりの幸せの形を見つけられればいいと思う。それが本当の意味での分を弁える、身の丈に合った生き方をするということなのだろう。(不本意な状態のまま我慢しろ、という意味で使われがちですがそうではない)

そして互いにそれを許容し合える世界に変わっていくといいですね。

 

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本日もお読みいただきありがとうございました。

 

Lin Shui Wang

 

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