ちょっと前ですが行ってきました。
超久々のJan Lisiecki氏のソロコンサート!ソロですよソロ、オーケストラなしですよ♪
Dusseldorf – “Preludes” recital tonight. pic.twitter.com/Y6kBrdmmTI
— Jan Lisiecki (@janlisiecki) February 29, 2024
この方の演奏を聴く時は必ず一番いい席を取ります。
今回も前から10列目ど真ん中。
この方は半年以上(ナマで)聴いてなかったのですっごい楽しみにして参りました。
プログラムも激烈に良かったしね。
結果どうだったか。
この半年ちょっとの間にまたものすごいパワーUPしてらした。スケールも技術も明らかに3段階くらい上がったな、という感じ。この人はでもまだ30歳にもなってない。今後どれだけ大きく伸びていくのか。
それはともかく演奏の間じゅうずっと私の脳裏にはこういう白斑の人の肌がちらついていた。
演奏は完璧、表現も完璧。何もかも完璧。
ただ最初から最後まで音楽の神様との攻防が繰り広げられていた。
奏者の魂が音に入ったり出たり。音の流れに完全に入り込むには神様の助力が必要だ。弾き手は何とか音楽に入り込もうとする、でも次の瞬間また外に弾き出される。でも再チャレンジ、入る、でもまた・・・の繰り返しだった。
神様との攻防と書いたけれど表現を変えると、神様をお招きしてるのにちょっと来てくれたと思ったらすぐに出て行って、でも諦めずずっと召喚、降りて来てくれた!と思ったらまた次の瞬間には出て行って・・・が最初から最後までずっと続いたということ。
つまり斑(まだら)だったのだ。魂が入っているところと入っていないところの斑。
音楽の神様は実に気まぐれだ。
本気の音楽家は皆そこに頭を悩ませる。
こちらが最大の全力を尽くしてベストコンディションでお迎えしても(それだけでも死ぬほど大変だけど)、降りて来てもらえるとは限らない。
奏者はそれでも最初から最後まで諦めず、命を削る勢いで集中して演奏する。
何故なら、神様が下りて来てくれた時の、あの音楽に入り込み続けるあの状態は筆舌に尽くしがたく最高だから。その『最高』を今宵集って下さった聴衆と共有したいとその場にいるのだから。
神様に振り回される。でもいつか必ずその瞬間が来るのを知っているからやめられない。
何もかも完璧。
だからクレッシェンド(段々音が大きくなる)の1フレーズを切りとって音量計測器で数値を図れば、何の不調もなく完璧に階段状に上がって行く数値の並びが見られたはず。でもそのフレーズの中でも演奏家の魂が出たり入ったりする様子が、明らかすぎるほど感じられた。
ソリストは本当に大変な仕事だ。
完璧だから、そして殆ど誰も上に書いたようなことには気付かないから、次の日の新聞や雑誌にはかねがね高評価しか掲載されない。絶賛される。
でも自分は完全に神様を迎えられなかった。音楽に入り込めなかった。それでもその葛藤を外に見せることはない。スターなのだから弱音は吐けない。そしてまた次の演奏会へ。
もの凄い精神力(つまりそのための体力も)がないと継続できない仕事だし生き方だ。
以前フランクフルトでエフゲニー・キーシン氏を聴いた時の衝撃はここに書いた。
この時は敢えて記載しなかったけれど、このコンサートも前半は今回と少し近かった。
最初の2曲は
何から何まで完璧すぎるほど完璧なのにバラバラだなぁ
とずっと思って聴いていた。
それが3曲目からいきなりぎゅっと纏まり出して、でもその後そのまま休憩になだれ込み。
後半は始まった瞬間からその場が完全に異次元の空間になった。
あの時は後半丸々音楽の神様がキーシンに降りてきていた。完全に音の世界に入り込んでいた、奏者が。
あの時のあの場を思い出すと今でも、あの時私の目にハッキリ見えていた “目に見えない世界” の、無数に降り注ぎ続ける星のような流れを思い出す。脳の中心から心地良く痺れる感覚が起こる。
一度それを経験してしまうともうやめられない。何度でもその人の演奏会に足を運んでしまう。
神様は気まぐれなのでそうそう舞台に降りてきてはくれない。だから大当たりのコンサートなんて本当に稀も稀だ。
それでも『今回はきっと♪』と毎度楽しみにする。
そして大当たりに出会うことができれば、その喜びは魂に刻まれる。
きっと死ぬ時に『美し過ぎる光景』として必ず思い出す。
それだけでこの世に留まって生きる、十分な理由になる命のもと。
ヘッセのいう、この世の美しすぎるものそのものだ。
そして4月には神!我が神が降臨する!!
最高だ最高だ!プログラムが最高だ!
もう今から楽しみで仕方がありません。
というわけで今日も頑張って生きよう。
まだお席あります。
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本日もお読みいただきありがとうございました。
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