去年の後半くらいからはっきりしてきたのだけれど、どうも私が見ているところ、見えているところが周りのそれとは随分異なる。
どうしてみんなそっちばっかり見てるんだろう?
とよく思うのだけど、それを図解してみました。
殆どの人には『 何を言ってるんだ、こいつは?』な話かもしれません。
現象が起きる流れ
現象が起きる流れがこうなってるのは、皆様ご存知のとおり。
上の図はかなりざっくりですが、例えば
【 お腹減った 】【 でもさっき食べたばかりだからやめた方が良いかな 】【 でもやっぱり食べよう!】=無形の世界
↓ ( 時間の流れ )
【 フライドチキン食べる 】(=現象)
↓ ( 時間の流れ )
【 太る(?) 】=有形の世界
もう少し丁寧に分類すると、考えや理論、学問、言葉は無形の世界に属するけれど極めて有形の世界寄りです。
というかちょうど間くらいかな。楽器の演奏や絵画、彫刻、ダンスなど芸術もこの位置。
本来無形の世界に時間の流れはないのですが、一応便宜上このように描いております。
普通の人の視点
そして大抵の人はどこを見ているかというと、もちろん有形の世界。
というより有形の世界【 しか 】見てない・見えていない人が殆ど。
そういった人たちにとって、その向こうにある無形の世界は
- そもそもその存在自体を否定する
- 存在は認めるけれど考慮に値しない
のどちらか。
算命学の視点
それが算命学の視点になると以下のとおり。
私たちは三次元のこの世・有形の世界にいるので三次元的現象から入るけれど、更に壁を越えてその奥にある無形の世界、その現象がなぜ起こったのかの原因を探り自然界から規則性を理論で導き出した。その規則性から今度はまた有形の世界で起こり得る気の流れを読んでいく、という循環。
つまり無形の世界、有形の世界両方を見ているけれど、やはり主眼は無形の世界。
立ち位置はやはり無形の世界と有形の世界の間くらい。
私の視点
私の視点がですね・・・もうこれは最近でははっきり自覚しているのですが
自分は有形の世界にいるのに殆ど無形の世界の情報しか自分に入って来ない。
物理的にはもちろん、普通に前から来る人は見えているので道路でぶつかったりはしませんよ(笑)
ただ物事、出来事、人物などを把握理解しようとする時、普通は
いつ、どこで、何が、どうなって・・・
その人は〇〇という名前で国籍は△△、何歳で性別は・・年齢は・・職業住所収入うんたら
あたりで把握しますよね。
こういったものは全て極めてこの世的な分類なのです。この世にしかないレッテル。これらは対象物を認識するのに、この世では絶対に必要な分類。
しかし私の興味の有無関係なく、どう頑張ってメモしたり暗記したりしようと思っても、私の内側に入って来ない。
ザルに水を入れてもダバダバ素通りして抜けて行ってしまう、あの感じ。顔を覚えられないというのも、この性質の一つです。
まさにこれ
逆に
〇〇が好きで夢中になっている といった話や
△△ということがあって××という経験からどうもこういう感じで引っかかってる とか
目の前の塔と広場に夕日が斜めに差し込んでいるのが目に入り、それまで抱いていた鬱々とした感情が少し晴れたのです
といったような話。
誰かの極めて個人的な内側の世界が一瞬漏れだす時、そこに強く反応して初めてその人が私の世界に入り込んで来る。
そのことにおいてその人を把握し始め記憶できる、という感じです。
何らかの出来事に関しても
どうして皆には表側しか見えないんだろう?
裏側にこういう意図や感情の流れがあるから、こういう現象が出てきてるのに
とよく思うのです。
鏡の中の髪を梳かそうとしても意味がない
皆人間の本質は無形の世界にあります。
考え、思い、心、感情、魂・・・そういった『 各人の存在の本質 』が
この世でも知覚できるような形で部分的に表れたものが現象。
五感でキャッチできる現象は、その後ろにある “ 大きな無形の世界 ” の極々一部だけが
こちらの世界に漏れ出たもの過ぎない。
つまり本質のある世界で実は何が起こっているのか、の投影でありヒントでもあるといえるわけです。
そしてこの世界で起こる何かをどうにかしようとする時、起こってしまった出来事に働きかけても
それは一時的対処にしかならない。
もちろんこの世に生きる以上それなしには進めないしそれで事足りることも多く、現実的対処は絶対に必要。
でも大きく拗れた問題をどうにかしたい時、現象だけを見て結果だけに働きかけても根本的解決にはならないのだよね。
その人の見えない、手で触れられない世界に潜り込んで原因を探り、そっち側を改善しないと
現象世界に何度でも同じことが形を変えて繰り返し現れて来てしまう。
昔聞いたどなたかの言葉で、とても印象に残っているものがあります。
鏡を覗き込んで髪が乱れていたとする。
その時、鏡に手を伸ばしてそこに写る髪をどうにかしようとしても出来ないでしょう。
そこに写る髪を整えたければ、自分の髪をどうにかしないと。
出来事に対処する時、殆どの人は鏡にタッチして髪型をきれいにしようとしているのです。
誰かについて、何かについて知り理解しようとする時、その理解への試みは大抵の場合
【 有形の世界 】:【 無形の世界 】=9:1 くらいなのではないでしょうか。
無形の世界への理解・アクセスは心理学、学問に基づいた正当なカウンセリングなどはともかく、どうしても目に見えないものなだけあって分かり辛くインチキが横行する。
でも国が、社会が、時代が成熟してこの割合が5:5くらいになれば、この世界も遥かに生きやすくなるはず。
この視点の違い・違和感を最近よく感じるので、今後何かについて書く時にこの記事に何度も飛んでくることになると思います。
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