随分前にも書いた気がするのですが
特別の努力もなしに学業が伸びたり、若くして芸術的な道で認められたりする午未天中殺の人は、小さくして心を傷つけられるような環境を通過してくるものであります。(原典)
こんなことまで分かるものなのか!
と思いましたよ、初めて国会図書館でこれを見た時には。
私は学業は別に特に伸びていませんでした。
ただ全く勉強した記憶がないのに毎度先生の覚えめでたく、成績も悪いと言われたことはない。でもその程度。
一方で音楽は師匠のおかげもあって伸びましたね。伸びたのですよ。師匠にも人前で演奏するチャンスをものすごく与えて貰えてとにかく恵まれていた。
しかし外ではそうだったけれど、家の中では気の狂ったエネルギーを持て余しっぱなしの母が、暴言のカミソリを思う存分振り回し滅多切りにしてくる日々。矢面に立つのはいつも私という毎日でしたのでね。
あの絶望的な日々のマイナスがあってのあのプラスだったのか
算命学ってこんなことまで答え合わせで分かるのか
とそりゃあ感心しました。
それはともかく。
この状態を真正面から停止するのが子丑天中殺なのです。
すると現実的に楽になります。
これはある意味 “高い次元を目指す” ことを止めるもの。
『高みを目指すものは孤独の罰を受ける』というものであるため、孤独でなくなる代わりに・・(略)
そう、これもね。
私は夫が子丑天中殺なのですよ。
午未と子丑の組み合わせは真反対のもの同士なので、足りないものを補い合うことができる。
けれども同時に伸びも抑制し合うという気の動きになります。
たしかに昔のような “心の底から冷え切るような孤独” は今はない。
でもどこをめくっても 孤独 というキーワードが必ず顔を出す命式なので、孤独と縁が切れることはありません。
多分それでいいのでしょう。
うん、それで何とかバランスを保っているところはある。
運って何か一つが飛び出ると、別のものが凹んだりするものです。
特に “本来これには恵まれないはず” というものを得てしまっている場合。必ず別のところで凹みが出る。
そうやって自然界はバランスを取っているものなのです。
自家製無意識運のやりとり とでも言いましょうか。
午未天中殺の人が精神的な生き方を忘れた時こそ、人生の終わりであります。
本質的に有形の宝をいくら掴んでも、午未天中殺の人は喜びを見出せない、却って虚しさを生み出すだけ。
物事の終わりを受持つ役目の人は、精神・心の満足の中にこそ静かに死ねるものです。
そのためにも精神の高まりが必要なのです。
午未天中殺の皆様、そうなのですよ。
でも言われるまでもなく、きっと身に覚えがあることでしょう。
私も昔から真の心の満足を得るのは必ず無形の世界において。
きっとあれこれ豪快にモノに恵まれれば嬉しいでしょう。
これは14世紀前半、ベネチアのやたら豪華なバックギャモンセット(ウィーン美術史美術館)
でも私が心の底から認める最上級の喜びや充実、幸福感はそこからは来ないのを知っている。
だからこそ本来生きていく上で特になくても死なない、いわゆる『無駄』とされるような世界が真面目に好きなのです。
![](https://kayo-ruhe.com/wp-content/uploads/2024/12/thumbnail_IMG_0176-320x320.png)
絵画であればそれでもモノとして残るので、後に金銭的価値が上がって財産になるかも知れない。
でも音楽なんて、音は発すればその瞬間から少しずつ消えていく、物質として残らないもの。本当にその瞬間に味わってシュッと消えていく。この世で究極に贅沢なものなのですよね。
そんな感じの世界に喜びを見出すのが午未天中殺の人たち。
ああ、また1つの記事に複数のテーマを混在させてしまった・・・まあいっか。
本日もお読みいただきありがとうございました。
でもこんなドアのある家にも住みたい。とても住みたい。毎日ことあるごとに愛でたい。アールヌーヴォー大好き。
Art nouveau Door in Barcelona
コメント
はじめまして
数カ月程前からこちらを拝見しておりますが、今回の記事は深く感じ入りました。
「午未天中殺の人がが精神的な生き方を忘れた時こそ、人生の終わりであります」
私は午未天中殺で三柱異常干支なのですが、きっとそうなのだと思います。子どもの頃から学んでいた音楽(唯一続いたもの)を仕事にしていますが、音楽や芸術、先人達の生き方等を通しての気づきがなければ、自己愛性人格障害のある親の元で傷つけら続けた心を守ることは出来なかったし、受け止めて内観することは出来なかったように思います。算命学や四柱推命を最近自分なりに学び始めましたが、佳代様の記事には救われることが多いです。
ありがとうございます。