この世に生まれて、死んで、また生まれてきて、死んで・・・を繰り返し変化して行く魂の旅はRPG(ロールプレイングゲーム)のようだ
と、明るい月の光が反射する北西フランスの海を見ながら思っていた。
私はゲーム禁止で育ったので見当違いのことを言っているかも知れないけれど、弟はゲームしても良かったので彼がドラクエをしているのを見たことがある。確かあれはあちこちで旅を進めるのに必要なアイテムを勝ち取って、レベルUPしていくものじゃなかったかな?
自分の人生を思う時、ドラクエのようかも知れないと思う。
でも要所要所で集めるのはあのゲームに出て来るようなアイテムという物質ではない。モノである人もいるだろうけれど、私の場合は特に違う。それが最近分かってきた。
私の人生に『 これを見つけるんだよ 』と埋め込まれた複数のアイテムは、アイテムというよりも宝物。それは私にしか分からない経験であり感覚だ。
経験した瞬間に
これだ!私が見つけるべくして見つけた、これを見つけないと先に進めない宝物は間違いなくこれだ。やっと見つけた。
と一点の曇りもなくクリアに自分のものにできた感覚であり経験。何にも代えがたい、これ以上ない煌めきと魂が震える歓喜を伴う瞬間。
その宝物は多方面に散らばる。
私は音楽についてよく書くけれど、例えば今回の旅だってそう。私は小学校の卒業文集に『 世界を飛び回る人生を送る 』と書いたほど世界中を見て周る気満々だったけれど、じゃあ具体的にどんなスタイルの旅が好きなのですか?どんなのが自分に合うんですか?なんてもちろん分からなかった。
なのでとりあえず出来そうなところから始めた。
と言ってもドイツ語力も経済力も経済的支援者もない状態でいきなりドイツに移住するというところから始めたので、無茶すぎなやり方ではあるけれど、とりあえずそこがスタート。
そこから楽器一本持ってあちこちの国のコンクールに出たり演奏の場を頂いたりと、演奏活動で飛び回る生活が始まった。
その後そこから離れて飛行機に乗るCAの仕事もした。次は子供ができ家族であちこち飛び回る生活となった。その都度旅のスタイルは変わる。その都度自分に合うもの・合わないものを経験から見分け、少しずつ自分に合うスタイルに近付いて行った。
そして今回のバカンスでバシッと分かった。『 これだ!』と。『 これだったのか、ここだったのか!』と。
『 これだ!』が見つかった瞬間に、実は自分が今まで無意識にもこの宝物に導かれ、そこへ向けた旅をしていたことが分かる。『 これだ!』を探していたことが分かる。それまではそこに宝物があるかも知れないとすら思っていない。それくらい宝物は地中深くに隠されている。そして自分なりの方法でなければ辿り着けないようになっている。
だから面白いんだな。
人々が口々に言う『 こっちが正しいですよ 』『 いや、あっちが 』はあなたにとっての正解とは何の関係もないかも知れない。
それは『 これだ!』の背景に散らばる無数の『 これじゃない 』の海を漕ぎ分けて進む旅。『 これだ!』以外は全て『 これじゃない 』。『 これだ!』に近いけどやっぱり『 これじゃない 』、を感じ分ける旅。
一つ一つ吟味して、その際に自分に嘘をつかず、感覚を誤魔化さず、妥協せずに『 これじゃない 』を見分け続ける旅。
一つの本物の『 これだ!』があるということは、それ以外は全て『 これじゃない 』なんだ。それを
『 これじゃない 』なんて我がまま言ってないで、身の丈に合った生き方をしなさい!
なんて巷の戯言を真に受けていては到底掘り起こせない宝物。そこは頑固であれ。そこは我がままであれ。そこで妥協して諦めていては手に入らない『 これだ!』という宝物。
最近そんなことばかり書いていますね。
でも何故そんなことばかり書くかというと、その宝物を見つけた瞬間の、自分だけにしか分からない、でも100%の確信を持って言える『 これだ!』の感覚を皆さんにも経験してもらいたいから。もちろん既に経験済みだし、経験しつつ進んでるよ!という方もきっと多いでしょう。でもまだの人も多いということも知っているからです。
他の誰かに何かを経験して欲しい、なんて烏滸(おこ)がましいのかも知れない。
でもこんな喜びってないんだよ、ないの。
そしてRPGのように、その強烈な喜びの経験を経たからこそ(必要アイテムをゲットしたからこそ)本格的に魂がまた少し前進できるというそんな代物(しろもの)。
宝物は地中に埋まっているといつから錯覚していた?あなたの宝物は皆と違って、実は水中にあるかも知れないよ。
本日もお読みいただきありがとうございました。
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