余程アレな親でない限り、自分の子供にはあれもこれもしてやりたいと思うのではないでしょうか。私も例に漏れず、出来る限りのことはやってあげたいと思っています。
でも最近気づいたのですよね。
やってあげたいと思ってる
って常に足していく方向に、足していく方向に考えていることに。
ここで言っているのは例えば学校の勉強だけで足りなければ塾的なところに通わせた方が良いかとか、スポーツや芸事、プログラミングなんかもやらせてみた方が良いのかとか、そういうプラスアルファの部分の話です。
私自身が子供の頃あれダメこれダメとあらゆることを妨害されて、楽器以外は何も(例えば学校の部活や家でテレビを見るとか友達と電話することすら)させてもらえず、可能性を閉ざされることばかりされてきた反動もあるとは思います。
でも気付いた。というか思い出した。
私自身この世に生まれてきてこれとこれをしようと、その種を持って生まれてきた。
その種というのは芽を吹いて花を咲かせるために必ず動き出します。種自身が発芽のチャンスと時期を窺ってる。それまではじっと力を溜めているのです。
そしてその萌芽の兆しには必ず本人が気付くものです。
そこを侮っちゃいけない。
というよりも
誰もがそういった種を持って生まれてきたということを忘れちゃいけない。
発芽 by Johannes Itten (schweizerisch, 1888 – 1967)
人間とは愚かなもので、つい何十年か先に生まれた程度のことで、新しく生まれてきた子供には何もないものと思い込み、自分がどうにかしてやらなくては!と思いがち。
もちろん甘いものが好きだからってそんなものばかり食べてちゃダメだよとか、ご飯の後はちゃんと歯を磨こうとか、頭はこうやって洗うといいよとか、現実生活を潤滑に送るために最低限教えなければいけないことはある。
でも人生の本筋というか、どちらの方向へどう進みどう生きて行くのかみたいな要の部分こそ、本人の中にその種が芽吹いてくるもの。
たかが数十年人間を長くやってるという程度であたかも『 お前やお前の人生については私の方が良く知っている 』とばかりにああだこうだ介入するなんて思い上がりも甚だしいんだよね。とんでもないことだわ。
そこをしっかり理解していないと
私が何もないこの子を助けてやらないと
↓
私が決定してあげないと
↓
私にはこの子の人生に関して決定する権利がある
↓
この子の人生を私色に染めてやろう(上手く行っていない自分の人生の二週目として使ってやれ♪)
↓
この子の人生を私の都合のいいように使い倒してやろう、だって私にはその権利があるから
みたいにとんでもない履き違えを起こし、厚かましさの増長はとどまることを知らず、ただの乗っ取りや悪霊の憑依のようになってしまう(実態を伴う分、悪霊よりはるかに有害)。
そこまで行かなくとも助けているつもりで良かれと思ってやっていることが、実は発芽しようとしているまさにその上に自分の人生で出たゴミでしかないものをどさどさ山盛りに積み上げ、発芽を妨害するようなことになってはいけない。絶対にダメだ。
自分より数十年あとに生まれてきた子供如きの考えることよりも、私の選択の方が正しいのだなどととんでもない勘違いをして、子供の行く手を塞いではいけない。
どんな人にも今世で芽を出そうとしている大小様々な種が存在している。
そこに種があるということを忘れちゃいけない。その生命力を信じよう。
そのためにはむしろ引き算、引き算で考えて、どうしても親の力が必要な時にこそ足し算方式で助けを出したらいいのかも知れない。
きっと足し算方式より、邪魔をしないことの方が重要なのだろう。
人間としての経験は少しばかり長いのだから、その分子供に教えてあげられることはある。
でも決して、魂の存在価値は完全に対等なのだということを忘れてはいけない。
邪魔さえしなければ生命は必ず生きる道を開く。
その種と生命力を、敬意を持って信じよう。
まあ何故そんなことを思ったかというと、三男が最近よく
僕は芸術家になるから
と断言しているからです。
ちょっと面白いなと。そして邪魔しちゃいけないなと。
Christmas Mass, 1928—1933 by Clarence Gagnon
本日もお読みいただきありがとうございました。
コメント
お返事ありがとうございます。誤字ってました、何ヶ月か前、でした。
私は算命学を知って間もないので理解が足りてないのかなと思いました……。もっときちんと理解したいなと思いました。
こんにちは。何ヶ月に佳代さんのブログを見つけて、質問したいともじもじしておりました。佳代さんにお聞きしたいのですが、算命学って怖いなぁと感じたことはありますか?
こんにちは。コメントありがとうございます。
算命学を怖いと思ったことはありません。畏敬の念はありますね。