最近友人がこの中川家という漫才師さんを教えてくれましてね。
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私は存じ上げなかったのでございますがめちゃくちゃ面白いやん!!
観始めたら止まらなくなってしまって大変です。それにこんなこってこての勢いのある関西弁聞いたん一体いつぶりやろ?これ聞いてたら私もこてこての関西弁で喋りたなってきたわホンマもーあんたー!笑
いうてもね、私の関西弁は神戸・宝塚・西宮とかその辺なのでこのお二人ほど勢いなくて大人しいんですけど、他の地域の人から見たらそんな差わっからんわなぁ~!(←すっかり中川家の勢い)
で調べてたらこのお二人はご兄弟なのですね。
さすが兄弟で組んでお仕事なさってるだけあって、兄弟中殺がないんだよなあ。良かった。ホッとするわ。
さて。
昨日ある人と
私昔クラシックギタリストやってたんですよ~それもスーパーガチ勢で
という話をしていて思ったこと。
あれ半分くらい有願だったかもなと。
よし、ご説明しよう。
算命学では人間の願望をざっくり2種類に分けて考えます。
例えば子どもの頃家でチョコレートを完全に禁止されていたとします。
外で誰かに貰って食べたことはあって美味しいのは知っている。そしてチョコレートが大好き。食べたくてたまらない。でも家では絶対に食べられない。ぐぬぬぬぬ・・・ちょこれ~とぉぉ~・・・!!
と思って大きくなったら、家を出た途端とりあえずは毎日山盛りチョコレートを貪るでしょう。でもそれをしばらく続けたらチョコレートへの餓えも静まり、以前ほどチョコレートに憑りつかれた状態ではなくなります。
そしてチョコ以外にも別のも食べてみようかな、となってくる。
このチョコレート食べたい!という欲求を有願と言います。
自分本来の希望や願いというよりも満たされなかったための反動として現れる願望であり、環境によって他力的に発生したもの、つまり自分が持つ本質ではない(原典)
人間が “ 自己の本質が何であるか ” を知るのは非常に難しく、もし知り得たとしても30年、40年というような長い歳月を必要とする。
そして人間の運命も宇宙の真理である中庸=バランスによって作られているのだから、若い頃の欲求不満もそれが解消されると同時に自己の本質に立ち戻ることになるのです。
弦の振動のようなものですね。
自分が弦で、誰かに一方に引っ張られたり押さえつけられた後手を離されると反動で同じくらい逆方向に振れる。
でも暫くするとその振動は行ったり来たりしながらも止まり、元の弦としての自分の姿になる。
自己の本質に立ち戻ると自分がチョコレートだけでは幸せにはなれないと知ったり、何となくチョコレート山盛り生活継続では本心に反した生き方をしてるんじゃない?と空虚なものが生まれてくる。
注:ここでは単純化して分かりやすくチョコレートを例にしていますがそれは学ぶ欲求、友人たちと楽しい時間を過ごす欲求、金銭面の欠乏から来る欲求、家族愛の不足から来る欲求など様々考えられますね。
そんな時、真の満足を得ようと今度は自己を取り戻すことに意識が向く。
そうして自分本来の性質から出てくる願望を無願と言います。
人が生きることにおける役目とは無願の中にあり、有願の中を通過している時は役目を口にしていても真の役割は果たしていないのであります。
分かる気がしますよね?
誰にでも上に書いた “チョコレート” にあたるものがある。
そこを満たさないと先に進まないのです。
そして
人間が自己の本質が何であるかを知るのは非常に難しく、もし知り得たとしても30年、40年というような長い歳月を必要とする。
というのはつまり、ちゃんと有願を満たして先に進もうと思ったらそれくらいかかるよ、有願を心行くまで満たし切るのにそれくらいの年月は必要だからねということ。
算命学の教科書に書いてあるそのまんま、私も音楽こそが我が道!と人生賭けて全力も全力Maxで突っ走ってきました。
そしてドイツに来てからはあっという間に目標を達成して やり尽くした感 および このままこの道を行くのはどうも違う と感じ方向転換したのが32歳。笑っちゃうほど教科書通りなのですよね。ホント算命学ってすごいのよ。
ならば、とお考えのそこのあなた。
この論を知った人の中には人間がいち早く何らかの方法で自己の本質を知ることができれば、論理的に無駄な人生を歩まなくてもいいように思われるかも知れません。が、無有願論は一足飛びの人生を厳しく戒めているのです。
戒めるというよりも自然の摂理として無理なのです。
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本日もお読みいただきありがとうございました。
Buddha Hands, Thubchen, Gompa, Mustang, Nepal, 2005
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