そんなカサンドラ症候群で苦しみの渦中にいる人たちへ。
あなたに常に注目して欲しいし常に褒めて貰いたい、そして常に自分に都合のいいようにあなたを奴隷のように利用し尽くすあなたの身近な人。そういった人たちは成長過程で本来与えられるべき注目、気配り、愛情を与えて貰えず心が栄養失調状態なので、その飢餓感を全力で埋め続けようとしています。
それに対し家族なのだから、友人なのだから、上司なのだから云々・・・と真っ直ぐ向き合い、心身と尊厳をすり減らしてでも愛を注ぎ、気を配り、あれもこれもしてあげる。言われたとおりの存在になってあげる。それはある種、人として尊いことです。
精神も心も飢餓常態で穴ぼこだらけの目の前の人が少しでも癒されるようにと、愛を持って歯を食いしばって頑張っているでしょう。そしてその人たちにとっては、本来子供の頃与えられるべきであった愛情関係の疑似体験ができる。それはその人たちが必要としているもの。あなたはチャンスを与えているのです、自分で立ってごらん?ほら、見ていてあげるから、助けてあげるから大丈夫だよと。
そんなあなたの姿勢は尊い。人として立派だしそこで全力で徳を積んでいることにもなります。
ただ、限りある人生において人は必ず次のステップに進まなくちゃいけない時が来ます。
それは精神に穴を抱えた人もそう。
そういう人の役に立というと頑張るあなたもそう。
小学校生活が必要な経験だからといってずっと一生涯小学生でいるのはおかしいよね、というのと同じ。
誰かの注目や愛情を無理やり暴力で奪い続けずには自分を支えられない人は、今まで身近な人から受けた愛の大きさに気付いて自分の足で立つ練習を始めなければいけない。自立を学ぶということ。
心身ともにズタボロになりながらも誰かの役に立つために、誰かに自分を粗末に扱うことを許し続けて来た人。もっというとそれを通じて相手からの愛を期待している人。そういう人はもうその状況は卒業して自分を大切にすることを学ばなければいけない。自分で自分を愛するということ。
だって人生には『 自分を幸せにする 』という責任が付きまとうものだから。
自分で自分を幸せにするということ。そこに全力を尽くすということ。それは罪ではない。後ろめたいどころかむしろ義務なのです。『 あなたはあなたをどうやってどれくらい幸せにするのですか?』を天は見ている。すっごく見ている。
きっと縁があって誰かに自立のチャンスを与える役割を請け負ったのでしょう。あなたは本当は自分で自分を支えられるんだよと気付かせる、大丈夫だよとその気づきのチャンスを与える人。
責任感のあるあなたなので、それを続けなければと思っているかも知れない。でもそうじゃない。次のステップに移るべきなのにそれをせず、不自然な主従関係を継続するのは実は愛ではないんだよ。その不自然を綺麗ごとのラッピングで包んで、安い見せかけだけの家族愛劇場を上演し続けてはいけない。そこであなたが潰れてしまっては元も子もないのです。ずっと支えようとすることは、相手から自立のチャンスを奪うということ。行き着く先は共倒れとなりかねない。
請け負った役割は立派に果たしましたと。それは期間限定で奉仕する関係だったのかも知れない。
ある程度まで行ったら、支えの手を放す。その卒業をも含めた『 チャンスを与える役割 』なのです。その段階の卒業までやり遂げる。
あなたはあなたをどれだけ幸せに出来ていますか?
いつも一緒に居ること=愛 ではない。離れても死んだ後には全て本当のところが明るみにされるのだから大丈夫、心配はいらないよ。
‘L’Art de la Conversation by René Magritte,
本日もお読みいただきありがとうございました。
コメント