年末に長男の歯の治療が一段落しまして、その時治療費を払いました。保険の範囲を超えていたので、円に直して7万円とかかな。それを私は何となくそういう気分だったので(夫との共同口座から出しても全然良いのだけど)、自分が稼いだお金が入っている自分の口座から払ったのです。そしてカードを機械にペタッとくっつけて払っているまさにその瞬間に
あれ!?これ私が払っているように見えるけど、払ってるの私じゃないわ!
と気が付いたのです。
私が仕事をして稼いで、私の口座にお金が入って、その口座にアクセスする権利がある私がそこからお金を払っているようにこの世的観点からは見える。そういうことになってる。そうとしか言いようがない。
でも違う。
本当は何かが私を通じて支払ったのであって、私はお金が流れていく中継ポイントでしかないぞ、と強烈に分かったのです。
そして同時に
この感覚知ってる。よく知ってる。私が演奏家として舞台の上で演奏していた時のアレと全く同じだ。
と当時の感覚を思い出しました。
私が楽器を演奏しているようにこの世的観点からは見える。そういうことになってる。そうとしか言いようがない。
でも実際そこで起こっていることというのは、私が演奏に集中すればするほど、私ではない別の何かが私を通じて演奏しているということ。それが当事者として強烈に分かる。
もっと言うと私という演奏者、私の指の動き、そして楽器を中継ポイントとして、私ではない全く別の何かが音となって滔々と流れ出るあの感じ。あれと全く同じだ!と。
そんな風に私は日常生活でも時々『 私ではない何かもっと大きな別の存在 』を強く感じることがあります。
私は自分で考えているようで、実際は別の何かが私を通じて考えているのかも知れないし
自分で何かをしているようで、実際は別の何かが私を通じて行動しているのかも知れない。
自分で人生を生きているようで、実際生きているのだけれど、別の何かが私を通じてこの人生を同時に体験しているなと分かる時が多いのです。
それは何かに乗っ取られるという話ではなく、何かと考えを、行動を、体験を、そして人生を分かち合いながら、協力し合いながら編み上げていっているということ。
そして今自分が中継ポイントになっていると感じる時、暖かい何かに包まれてゆったり一体となっているのが分かりとても心地良いのです。だからといって自発的にそういう瞬間を作っていくというのはなかなか難しいのですけれどね。
Paul Gauguin Bouquet of Peonies on a Musical Score, 1876
演奏家は楽譜をこんな風に雑に扱わないけどね(笑
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