皆さんこんにちは。
寝ている間に白目の血管が切れたようで、右目がこんな感じになっておりまして
ネットで拾ったイメージ図、怖いから小さ目で
ゾンビママが来たぞぉ~ガァ~っ!!
と言いながら子供たちを追いかけ回し、子供たちがキャー!と逃げるというベタな遊びを繰り返している新年です。
そういえば昨日こんな記事を書いた直後
弟から『 明けましておめでとう~』というメッセージが入りまして
私が喪中ってことは君も喪中なんとちゃうか?
と思いましたね。でもま、家族内だから良いのかな??
ところで喪中ってそもそも何かというと、親しい人を無くしてしょんぼりしている人に向かって
『 めでたいなぁ、楽しいなぁ、一緒にどんちゃんしようぜ♪』
というのは酷やろ?死者を偲んでるところ、邪魔したらアカン。そっとしといてあげよう。
という心遣いだと思うのですよね。
で、ここでまた私の感覚が皆さんとは違うかと思うのですが、私にとってあの世って地続きなのですよ。
いや、地続きどころか直通というかめちゃくちゃ近い。
例えば私のいるドイツと日本にいる皆様、地続きでもなく言葉も文化も違う場所でエライ遠いじゃないですか。会って意思疎通しようと思うと、どちらかが丸半日くらい飛行機に缶詰めで移動しなければ無理。遠いわ~めっちゃ遠い。
それが死んであの世にいる人というのは、その空間的距離がゼロになる。
そしてあの世は100%『 思いの世界 』 私は正月からまた何の話をしていますかー?
そして『 思い 』つまり気持ちの世界はこの世とあの世は共有というか、ツーカーというか、意識を向けるだけで『 あなたは私、私はあなた 』の世界なのでモロにダイレクトに直通なのですよ。
この世とあの世を陰陽とした時、いくらこの世的三次元的物質世界が極まっていても、その中には必ずあの世要素が混ざっている。
この赤で丸してみたところ。陰が応じてもその中に必ず陽の種がある。図で示すとこれです。
私の感覚ではもっと常にダイレクトにそこにある、という感じです。2つの世界は重なり合って混ざり合っている。
たとえば2人の人。両者生きている間は日本とドイツで距離があって、それでもお金と時間をかけてわざわざ会いに行って直接喋り、同じ母国語で会話している・・・にも関わらず全く話が通じない人!いるでしょう、そういう人。
そういう人とは返ってどちらか(もしくは両者)があの世に行った方が話が早いのです。片方があの世、もう片方がこの世にいる場合、この世の人の思いはあの世の人から見て筒抜けの丸見えのモロバレ。あの世の人がどう思っているかは、こちらがあの世に行ってからのお楽しみ、というわけです。
なのでね。
なんと言いますか、日本とドイツで両者離れて暮らしてた時より今の方が圧倒的に近い。だってあの世とこの世は重なって存在してるから。正直私にとってこの世の存在とあの世の存在って、体があるかないかだけの違いで『 同じやん 』としか思えないのですよね。
もちろん両者がこの世にいない限りできないことはたくさんあります。人間として親子としてこの世で生活を送るとか。一緒に食事するでも、旅行するでも、仕事するでも『 この世限定イベント 』をこの人とやろうと思ってたのに思う存分やりきれなかった、残念だ!もっと色々一緒にしたかったのに!という意味で誰かの死を哀しむのはよく分かります。
でも死というのはそういうわけで、私の中では世間一般にイメージされるこういう感じ
Death and the woodcutter, 1859 by Jean-François Millet
とはかけ離れています。そんな暗くておどろおどろしいものじゃないよ。誰だよ、そんないい加減なイメージ広めたのは。
だって元いたところに帰るだけなのだから。こっちの世界を卒業して『 ただいまー♪』と大手を振って仲間のところに帰っていく区切りでしかないのだから。
ハイ、私は正月からまた何の話をしていますかー?
喪中という言葉からちょっとそんなことをお伝えしてみたくなりました。
なので
生きて遠くにいる人に『 あの人が元気で幸せな、満たされた毎日を送っていますように 』と思いを馳せるのと
亡くなった人に冥福を祈る、ということは実は対象に体があるかないかだけの違い。やっていることは全く同じなのです。
ゾンビのフリをする私と大喜びの子供(笑
仙厓義梵『 指月布袋画賛 』江戸時代
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