あのですね、皆 声が大きな人に引き摺られ過ぎ だと思う。
声が大きく、尚且つ断定形で話す人。そういう人にぞろぞろついて行く。ハーメルンの笛吹きのようだとよく思う。
皆自信がないんだよね、どう生きればいいか。どう考えてどう決断してどう行動すればいいか。間違いたくないもんね。そりゃそうだ、だって誰でも生まれて来る時は全ての記憶を一旦リセットして白紙状態で生まれて来るから。誰もが暗中模索、手探りで進んで行くしかない。だからこそ不安、だからこそ何となく自分の外側に正解があるんじゃないかと思ってしまう。自分より人生上手く行っているように見える人が正解を与えてくれるかも知れないと思ってしまう。だからこそ誰かに「~かもよ?」ではなく「~なのだ。」と断定して欲しい。天からの啓示のような何某かとの邂逅で人生が一気に好転するのではと、映画のような劇的な展開を期待してしまう。
でもそうじゃない、気を付けて。
声の大きい人、派手に振舞う人で求心力のある人というのは、人間のそういった根底の不安を見透かした上で意識的に揺さぶりを掛けてくる。なまじ馬鹿でない分、それを通じてお金に変えるのが上手い。それをアピールする。そうするとその派手な部分を見て『 あの人は人生上手く行っていそうだ 』とより一層笛吹きを盲信し、自分で感じたり考えたり決めたりすることを放棄してしまう。よく知りもしない他人に自分の人生のとても大切な部分をあっさりと明け渡してしまう。
でも笛吹き男について行った子供たちはどうなった?
人生に正解はない。
特に最も本質的で根本的なことに関して、これが正解です!なんてものはない。唯一の大正解なんてないからこそ、そこではひたすら【 自分で決めていく 】という作業になる。こうすればこうなるかな?と夢を見ながら自分で決断し、こうするとこの問題をクリアできるかな?と人生の障害物を超えていく決断をする。
それが人生の醍醐味。それが人生の一番美味しいところ。その一つ一つで自分の人生が紡がれていく。その一つ一つを自分ですることで、人生は自分色に染め上がっていく。自分が自分の人生を自分色に染めていくという作業。それが人生の醍醐味。
そしてここが最も大切なところなのだけれど、その決断は責任と表裏一体でなければいけない。決断の帰結として現れて来る現実について決断者が責任を取るということ。ここまでが一セット。
笛吹きたちは決断を唆(そそのか)しはしても、その結果に責任を取ってくれるわけではない。ただ人を集めお金を集めて去っていくだけ。相談者の人生にその後何が起こったかなんて知らんがな。後は野となれ山となれ。
それでも発信者がその他大勢に向けて一律に広く浅く情報を流している場合は、まだ受け手への食い込みは浅いかも知れない(完全に盲信している人は知らん)。
本当にマズいのは1対1の相談や鑑定、カウンセリングという形を取りながら、鑑定者が相談者の決断権を奪ってしまい最終決断を下し、引導を渡すこと。「 こうして下さい、そうすれば上手く行きます 」と決めてしまう場合。上で『 決断と責任は表裏一体でなければならない 』と書きましたが、相談者の人生の美味しい部分、つまり決定の部分だけを掠め取って後の責任は相談者に押し付ける形。そもそも「 上手く行く 」って何だ?上手く行ったと感じる基準、喜びや幸福の基準は人それぞれ。他の誰かが「 これが上手く行っているということですよ! 」と決めるような筋合いのものではない。
言われたとおりにやって希望通りになれば、相談者はますます自分で考え決断することを放棄し、信者化し依存が深まる。鑑定人は手柄を我が物とする。
上手く行かなければ相談者が面倒を被ることになるだけ。鑑定人は『 私の言うことに従おうと決めたのはあなたでしょう 』と逃げる。
これが無料であれば猶更マズい。無料だからこそ誰かに依存したい人が大勢群がり、無料だからこそ『 ただでやってくれるんだからいい人 』と盲信に拍車がかかる。その結果人々はますます自分の人生の最も大事なところを他人に明け渡し、骨抜きにされる。人が十分集まったところで換金システムに変更していくのもお手の物。そして人々は本格的に信者になる。
これがどれほど全方位的にマズイことなのか、何故皆見えないんだろう?と不思議でならないわけですよ。特に鑑定者側はそれによって、着々と悪業を積み重ねることになる。なぜ分からない?私にはそれが他者の命に対する敬意の欠如にしか見えない。命=人生だから。
他人の人生の最も大切で美味しい部分を掠め取るという越権行為をなし、責任は丸投げ。そして相談者はますます空洞化。もしこれが霊感・霊能鑑定といったようなものであれば、その人には目に見えない世界の大事なことが実は何も見えていない、霊感など全くないというあからさまな証明になるにもかかわらず、誰かに依存したい気持ちが募りすぎる人にはそれが分からない。
他人の人生に、特にその人の最も大事な部分に生半可な気持ちや形(例:無料)で関わってはいけない。
そして誰かの最終決断という人生で最も大事な決断権は、どんな形であれ侵してはならない。
他の誰かに自分の人生を乗っ取られないように、乗っ取らせないのに役立つのは自らの経験と知識、教養。ナントカ大学の偉い先生の話を参考にしてもいい、何とか研究所の長年に渡る研究結果や論文を参考にしてもいい。でも毎度それに触れた時の自分の感覚を無視せず、自分で考え、自分で最終決定を下す。どんな小さいことでもその積み重ねでそのスキルは上がっていくし、それを続けていくと “ ただ大声で断定的に喋っているだけの笛吹きたち ” の本性や目的もすぐ見抜けるようになる。
皆自信がなくて大丈夫。自信がないなりに、それでも勇気を出して自分の感覚に従ってみる。決断してみる。その結果を請け負う。その繰り返しで自分の人生を自分の色に染めて行こう。それが自分の人生を生きるということだから。
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