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『全体』ではなく『個』に向かう意識(1)

 

ひろゆきさん、どうして「今の日本では“フェミニズム”って言葉を使わないほうがいい」のですか?
連載「 #私たちのフェミニズム をみんなで語ろう」第1回 前編:西村博之(ひろゆき)さん

 

という記事が面白かったのですが、その中で一番私の中に残った言葉は以下のもの:

 

 

他人の経験や本などから学習できる人って少数派で、自分の経験からしか判断しない人はやっぱり多いと思います。
そういう意味では 「 自分と違う人は見えない 」 というのが多数派で、それはなかなか変わらないんじゃないかなぁ。

 

 

私はこの記事を読んで

ひろゆき氏は女性を下に見るでも上に持ち上げるでもなく、とてもフラットに素直に対話なさってるなあ

なるほど、そうだよな

と思う部分も多かったのです。

 

 

が、ツイッターではフェミニスト系の方々 (?多分 ) 結構この記事に不快感を表しておられて。

 

 

私からすると

そんな嫌な文章あったっけ??

という感じ。

 

 

これを読んで思い出したのがこの記事

随分前の記事ですがかなり面白かったです:

 

302

 

低学歴と高学歴の世界の溝

 

 

上のひろゆき氏の記事は

◎ 性別やその扱いという視点から見た生まれ・育ちが異なる人たちのズレ

下の記事は

◎ 学歴や生活レベルという視点から見た生まれ・育ちが異なる人たちのズレ

の話。

 

 

その違いが大きければ大きいほど、上のひろゆき氏の言葉

「 自分と違う人は見えない 」 というのが多数派で、それはなかなか変わらないんじゃないかなぁ。

の通りになると思う。

思うというよりも、それを外国に出て経験したから分かるのです。

 

 

よく文化の違いなどと言われますが、それはあまりに茫洋とした表現で

私の感覚からすると国が違っても学歴や生活レベルの同じような人は、実は結構無理なく話が通じたりする。

一方、文化も学歴も生きて来た生活環境も違い過ぎると、どう頑張っても会話にならない という強烈な経験を何度もしてきました。

 

 

私は正直フェミニズムというのはあまり理解できておらず、実は興味も薄い。

フェミニズムに傾倒し、男女差別の絡む話題に敏感に反応する人たちというのは

おそらくそれまでの人生に繰り返し繰り返し、性別絡みで深く傷つけられてきた人なのだと思う。

 

 

私の経験した性差別といえば、母親に

弟たちは男だから教育にお金はかけなければならない

おまえは女だから弟たちのために遠慮しろ

おまえにはお金はかけない

と、とにかくあれもこれもあからさまにケチられたということくらいで、一歩家を出たら

女なんだから〇〇するな~

みたいなことは一度も言われたことがない。

なのでフェミニストとして喧々囂々とやり合っている人のことが分かり辛い。

 

 

しかし例えば私の場合は

サイコパスの下に生まれて日本を離れるまで ( 実は離れてからも結構な期間 ) 

愚弄に罵倒の精神的虐待が酷かったため、子供の虐待事件やモラハラ・パワハラ・セクハラ、DVなど

サイコパス絡みの話題や依存症関係の話題にものすごく反応してしまう。

当事者の気持ちも、その人間関係の構造もとても良く分かるから。

 

 

でも逆に私のようなサイコパスにべったり寄生される経験のない人から見れば

え、そんなところにそこまで反応する?

それそんなに重要?

みたいになるはず。

 

 

私は特に高学歴でもなければ低学歴に属するわけでもなく

学校もものすごい不良がいるわけでもなければすごい秀才がいるわけでもなく

都会育ちでもなければ田舎育ちでもない

というまさに中間層な感じの育ちですが

上の記事のような話はこういうところで読みでもしなければ想像も出来ないくらいの別世界。

 

 

何が言いたいかというと、鑑定で色々ご相談いただき、私なりに全力で回答したとしても

実は背景にある世界が全く異色すぎて、ご相談者にとって頓珍漢な話になっていることがあるかも知れない、ということ。

これは私とご相談者のどちらが良い悪い、上下という話ではなく

ある程度背景にある経験に共通点がないと実は話が通じないこともあるのでは?と、日本人相手でも時々思うからです。

 

 

ただし・・・ ( 次回に続く )

 

 

 

クリムト

 

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