この記事の続きです
『 一昔前、田舎で粋がる番長 』
と思いきやとうもろこし: 歌川国芳「 道外とうもろこし 石橋の所作事 」
さてこの歌川さん。
申が周って来る時は三合会局になってしんどい時期だったのでは?と予想されますが、後天運を見ると1836年39歳からの10年間が戊申の時期。10年もか・・・と思いましたね。そんなに続くのかい!と。この時期大運天中殺にも重なっていますし初っ端の接運では年運天中殺も重なり、つまり三合会局が2重になってますしね。どんだけ重なってんねん。そしてどうやって乗り切ったのだ、そんなしんどい時期を。
というわけで Wiki を見てみるとやっぱり面倒なことに巻き込まれています。
国芳45歳の時、運命は一変する。老中・水野忠邦による天保の改革である。
質素倹約、風紀粛清の号令の元、1842年には国芳や国貞らも人情本、艶本が取締りによって絶版処分となる。また浮世絵も役者絵や美人画が禁止になるなど大打撃を受ける。
江戸幕府の理不尽な弾圧を黙って見ていられない江戸っ子国芳は、浮世絵で精一杯の皮肉をぶつけた。
『 源頼光公館土蜘作妖怪図(1843年) 』は表向きは平安時代の武将源頼光による土蜘蛛退治を描いたものだが、本当は土蜘蛛を退治するどころか妖術に苦しめられているのは実は将軍・徳川家慶であり、国家危急の時に惰眠を貪っているとの批判が込められている。主君が危機だと言うのにソッポ向く卜部季武と見せかけたのも、実は水野忠邦。また(中略)他の小物類も当時の人物たちとされる。奥にはユーモラスな妖怪たちがいるが、これも天保の改革の被害者たちである。富くじが禁止された富くじ妖怪、歯のないろくろ首には歯なし噺など寄席の禁止を恨んだものなど、絵のいたるところに隠されている悪政に対する風刺が込められている。
江戸の人々は謎を解いては溜飲を下げて大喜びした。
(『 源頼光公館土蜘作妖怪図 』一部拡大)
しかし幕府はそんな国芳を要注意人物と徹底的にマークした。
国芳は何度も奉行所に呼び出され尋問を受け、時には罰金を取られたり始末書を書かされたりした。それでも国芳の筆は止まらず、禁令の網を掻い潜りながら幕府を風刺する国芳に江戸の人々は喝采を浴びせた。国芳自身がヒーローとなり、その人気は最高潮に達した。
やがて目の上のタンコブであった水野忠邦は(1843年に)失脚。
国芳は待ってましたとばかりに弘化から嘉永期には奇想漲る武者絵3枚続を描いて江戸の人々の度肝を抜く武者絵を世に送り出して新機軸を見せた。
とまあここから国芳のターンが始まるわけですが。
今でこそ The 歌川国芳 ですが、Wikiを見てるとかなりの遅咲きで、人生3分の2くらいずっと地味に絵を描き続けていたようです。15歳で入門。この時も年運天中殺で子辰申の三合会局の年。
この方は申酉天中殺なので、申が周る時は三合会局と同時に必ず天中殺も重なる。壮年期天極星というのもあって大変なことも多かったのではと思います。その大変な時期何をしていたかというと、やっぱり地道に絵を描き続けていた。
そしてこの記事でも書きましたように
庚辰はやっぱり将軍なので、常に前進常にチャレンジ、闘いの精神もそこに向かう在り方、形も備え持って生まれています。だからこそ天保の改革で自由な創作を妨害され、皆の分まで反戦の気運が燃え上がった。そりゃあ黙っちゃいませんよ、やられたら10倍にしてやり返すのが主星調舒の人ですから。その時に皆で一揆とかデモ( 当時なかったと思うけど・笑 )みたいな短絡的発想でなく 筆で勝負 というのがさすが!最高にセンスがあってワクワクしますよね。自分にしかできない闘い方、それもダイレクトにではなく超エスプリの利いた表現で大衆を喜ばせ溜飲を下げ笑わせる効果まであるやり方。
これめちゃくちゃ宿命を使い倒しているのです。だからこそ自分=庚が水の底に沈んでしまいがちな三合会局の時期に
>何度も奉行所に呼び出され尋問を受け、時には罰金を取られたり始末書を書かされたり
しながらも乗り切れた。そしてそのしんどい時期が過ぎてもどすんと来ることなく創作活動を続行できた。
っていつ卵の話出て来んねーん!?という感じですよね。Wiki見てたら面白すぎてやたら長くなってしまったのでここで一旦切ります。続きは明日。
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