犠牲運ってあるのですよね。突然ですが。
自分は家系の誰の犠牲の上に運が伸びていくのか、伸ばしていくのか。
自分は家系の誰の運を伸ばすために犠牲になっているのか。
まあ結論から言うと、家族親族内の話では誰のためとか誰を犠牲にとか全然考えなくていいです。
詳しく見ていくと皆誰かのために犠牲になっているし、誰かの犠牲の上に成り立っている。
皆見えない部分でも持ちつ持たれつなんだなあというのがよく分かります。
というかこれまた The 算命学用語 であり、イメージあまり良くありませんよね。
犠牲。
算命学って用語が結構えげつなかったりしますのでね。反対に
算命学でいい感じの言葉が出てきたら大抵いい意味ではありません
とか、さらっと教科書に書いてあったりするくらいですので(笑)
犠牲というより、人は一人で生きているわけではない以上、家族なり家系、会社なりどこかのコミュニティーに属している。
その中の一員として存在する時、そこにいる自分は “ 一人で生きている時の自分 ” とは必ず違う形をとるわけです。
それが血の繋がる家族であれば
自分の〇〇をちょっと今までより引っ込めてその分子供やパートナーに尽力しよう
といったことが出て来るのは自然なこと。
つまり 譲り合い ですよね。
これ双子の運について考えてた時に思ったことと同じだわ。
犠牲運より譲り合い運とか言う名前にした方がイメージが良いよなあ・・・ブツブツ
で、例えば自分が父親の犠牲の上に運が開くパターンの場合
父親が社会でブレイクしていて絶好調!みたいな場合は全然犠牲になっていないので、自分の運が開かない
と言ったように反対からも見れるわけです。
昨日はそういうわけで珍しく我が家族の命式を、後天運まで全部白紙の上に並べて眺めていました。
私は子供が生まれた時
私が持っている強運でも強エネルギーでも何でも
必要なものは全部持ってっていいからな!
遠慮せず全部持って行け。
と伝えました。
まあ言葉が分からないので、主に子供の周りにいる目に見えないチームメンバ―に向けて、ですが。
その瞬間から自分の人生は子ども中心に切り替えたので、当然子供が幸せな人生送るためなら
自分の人生はあれこれ差し控えても全然OKになったわけです。
実際子供の命式を見ると、下の双子はダイレクトに私の犠牲の上に伸びるパターンですし
運のやり取りというか、玉堂定位置なのであれこれの受け渡しが比較的スムーズに行く感じです。
私が午未天中殺で彼らが子丑天中殺にもかかわらず、です。
一方長男は何というかその辺ががっちゃがちゃになります。
仲が悪いわけでも関係がぎすぎすしているわけでも全くありません。
むしろ仲が良すぎて、長男にとっては私といる時間空間は居心地がよすぎてマズいだろう、という感じなのです。
長男は突き放して何ぼ、厳しい環境で伸びるタイプなのですが、私がその突き放すとか厳しくをどうしていいか分からない感じ。
しかも長男には蔵干28元まで見ても、実母の星も偏母の星もない。
なのでこっちは犠牲になる気満々でも、受け渡しの経路が生まれた時から皆無、みたいな感じなのです。
それが実生活でも実感としてとても良く分かります。
長男は父親との縁の方が遥かに強く、縁が強いというよりも父親にばしばし厳しく育てられた方が後に運が開け
また夫側から見てもそれが人生の課題の一つであるとも読めるわけです。
なんだか自分のことを色々書いてしまいましたが、家族が伸びて行こうとする時全員が
私が私が!
となると、やっぱりバランスがめちゃくちゃ崩れるのですよね。
夫婦2人だけの生活だとあまり深く考えなくてもいいですが。
子供をお持ちの皆様はよくご存じかと思われます。
全員が舞台に立って照明係も裏方も何も存在しなければ、舞台として成り立たない。
子供が出来るということは、この世にもう一つの世界を生み出すということ。
その世界の種がこの世で真っ直ぐ綺麗に気持ちよく花開いて行く、そのためには土壌や水、栄養素や太陽ほか
あれこれが提供されることが必要なわけです。
その提供元は別に血の繋がった家族でなくてもいい。
でもやはり大抵の場合は家族であり家系が基本。
子供たちが上手く私を踏み台に、自由に生きてくれたらいいなとよく思います。
A Mother (1888) by Elizabeth Nourse (American, 1859-1938)
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