この記事に
「ブルターニュの花崗岩の写真を載せますね」といいつつまた忘れていました、ごめんなさい。
こんな感じで1つ1つがめちゃくちゃ大きい岩なのです。これを切り出して建物に使うんだもの、すごいよなあ(小学生か)
ぼちぼち他にも載せていきます(忘れないぞー!笑)
さて。
この間の記事の続き
というかその前段階のお話。
神の知恵は偉大なもので、真に生きていない男性には真に生きていない女性との縁を与え、真に生きているものは同じく真に生きているものとめぐり逢うものであります。この縁やめぐり逢いこそが神が仕組んだ運命といえるでしょう。(原典)
これホントそうなのですよね。
算命学では相性を見ることができます。私も鑑定で見せて頂いています。
でも、じゃぁ相性が良い組み合わせであれば人生後は全部上手く行くかというとそうじゃない。たとえ算命学的に見て完璧な相性であっても、本人同士が宿命からずれた生き方をしていたら上手く行かない。
宿命同士がピッタリ合っているということは、宿命に沿った生き方をしていれば現実生活でもぴったり合いますよというだけの話。
これ、歯車がピッタリ合ってます。
これが相性が良いもの同士だとして・・(ループが変なのは気にしないでね)
左の人が宿命と異なる生き方をして歯が大きな円になっていたら?
右の人が宿命と異なる生き方をして歯が極端に小さい四角になっていたら?
現実生活上手く回らずぎっこんばったんして進みませんよね。
そういうことなのです。
自分じゃないもののフリをしていると、自分らしくない道が現れ自分らしくない人生を送ることになる。それは不自然で必ず破綻するよと。
こういう葛藤ってすごく大事。そしてこのシーンすごく好き。
良縁とは自分の努力が半分、神の助けが半分です。
真の家庭を築くには、それなりの準備と努力を必要とするのであります。
でも要注意なのは「真の家庭を築く努力」といっても女性は花嫁修業をちゃんと!みたいな話ではないし、男性も両親の言いなりに敷かれた路線をちゃんと生きる!みたいなことでもありません。
そんなことを本当にしたいのか。
世間の言う幸せとは自分にとっても本当に幸せなのか。
自分とは何か。
自分は自分の人生をどう作っていきたいのか。
この人生で何をしたいのか。
そういった「自分と向き合って、話し合って出てくる回答」を現実のものにしていく努力なのですよね。じゃないと自分を生きられない。自分を生きていないということは、宿命からずれているということだから。
どれだけ自分が自分自身に忠実なのかが常に問われてくるということですね。
本日もお読みいただきありがとうございました。
外壁に使われているのが上の花崗岩です。家がいちいち素敵なのですよねぇ。
コメント
私は真冬の日干・庚。
水気ばかりなので「沈金」と云われる庚になると思いますが、岩石であるなら、こんな温かみのある色をした花崗岩でありたいと思いました。
時にはキリッとビシッとしたスタイリッシュな船舶や刀剣にも憧れるけども。ささやかな日常とその幸福、それを守る形に変容できるこの花崗岩を知れて良かったです!素敵な写真を有難うございました!
庚子で地支が水ばかりというとリルケ(詩人)を思い出します。
確かに花崗岩だとほわんと暖かでいいですね。鉄鋼ばかりが庚じゃない。
花崗岩の家素敵なんですよね~(ただし建設風景を見ていると地震大国日本では全然無理そう・笑)
鬼滅のこの場面を見た時に何故かつらくて号泣しました!算命学を学びだして本当にこれは違う!と思うようになり、この後の蜜璃ちゃんの活躍に「そう、これがホンマの自分やん!」とまた泣くという(笑)本当の自分を活かせるよう算命学をもっと学びたい、という気持ちで佳代さんのブログを楽しみにしています!
いやホントに!
甘露寺ちゃん好きだし、甘露寺のところでたらふく食べた炭治郎にやきもち焼いてキレる蛇の柱の人も好き(笑)