今「進撃の巨人」を隙間時間に少しずつ読み返しています。2周目。
この漫画は何度も読まないと理解できません。2回目でようやく気付くことも多い。めちゃくちゃ多い。
そして正直、この話をまだ1度も読んだことない人で、今後ゼロから触れることができる人が心底羨ましいですよ!嗚呼、代わってくださいよその立場!(笑)
これほんっっっっとうによくできたお話で、全34巻という長い流れの中に無駄が一切ない。一体どういうこと?(笑)
密度というか話の濃厚さがすごくて、こちらに投げかけられるもののレベルも高い。話が複雑なのにどれも誰も取りこぼしなく全て綺麗に回収されて終わっていくし、この濃さとかそこで提示されることの質感とか、表現の方法とか、何重にも解釈できる多重構造とかね・・・しかもこの話を書き始めた時、作者はまだ20代ってどういうこと?(笑)
読んでいてすごく思うのが、私が好きでしょっちゅう演奏を聴きに行っているピアニスト、Jan Lisiecki/ヤン・リシエツキ氏 のこと(←クリックで関連記事集に飛びます)。
彼の演奏はちょっと完成度と世界の広がりが尋常ではなく、私が初めて聴いた時
ああこの人は今回の人生を最初から丸ごと「今までの数々の人生の総ざらい&総仕上げのド本番」にすべく、いくつもの人生を使って完璧に準備して生まれて来た人だ
と分かった瞬間があった。
音楽の世界では私はこの人に触れることができたけれど、きっとどんな世界にもそういう人はいるのだろうと当時記事にも書きました。そして漫画の世界においてこの「進撃の巨人」の作者である諌山さんはその類の人なのだろうと思う。
天才の誉れ高い彼もまた、きっとこれまでのいくつもの人生を使って念入りに準備して今回生まれてきた。そして “人生の早い時期から本番街道をひた走る形で大事なことを世に伝える役目” も負って来た人なのでしょう。
まあそれはともかく。
~(ここからちょっとネタバレ入ります、ご注意を!)~
この話の中で好きなシーンは数多くあるのですが、ゴリゴリの毒親育ちさんに刺さるシーンを紹介したい。
主要キャラの1人がその両親の目的達成のため親から駒のように扱われ、命をも危うくされかねない状況に陥ります。本人は重荷を負わされるけれど、本当は全くそんなことしたくない。でもせざるを得ない。しかし毎日親の意に添うように血反吐を吐きながら頑張っても、親の期待には程遠く絶望感満載で。どこにも逃げ場がない。
そんな中、全くの他人である一人の男性がその少年のことを気にかけ、現状を知った上で真摯に向き合い、極限の状態の時こんなことを言います。
君は両親からひどいことをされた
君の両親は自分たちの向こう見ずな計画のために君を利用した
7歳の君とおじいちゃんとおばあちゃんを命の危険にさらし
勝手に期待し
勝手に見放し
ちっとも君のことを気にかけなかった
君を・・・愛さなかった
君は悪くない
君は賢くて・・・いい子だ
「進撃の巨人」28巻 by 諌山創
これもの凄いセリフなのですよ、死ぬ思いで機能不全家族の地獄を生き延びた人間にとっては。そういう人がこのシーンを見たら泣くと思う。私は泣いてる、毎度。
ちゃんとハッキリ言葉で
君の両親は君を愛してはいない
それは愛ではない
君は何も悪くない
と大人として伝える勇気。そうハッキリ言ってくれて自分(=少年)を肯定してくれる力の強さ。
この言葉をかけてくれる男性は別にこの子と金銭の授受があるわけではなく、ただ何となく路上でキャッチボールをしあう仲になっただけ。何の見返りも損得関係もない。
そんな赤の他人が絶望の底にある、何の力も仲間もない弱い子供でしかない自分を “意思も感情もある一人の人間” として見てくれて、そして自分のために本気で泣いてくれる。そこには人間に対するリスペクトがある。
特級呪物系毒親のもとで子供が日々文字通り “死の一歩手前” まで追いつめられてしまうのは
誰も自分を一人の “感情のある” 人間として扱ってくれないから
誰に顧(かえり)みられることもなく自己の存在を感じられないから
使い捨てティッシュのように物として消費され続けるだけの毎日で、自分が生きる意味も価値も見いだせないから。
そういう被虐児たちに、そのキャッチボールおじさんのようにちゃんと自分を見てくれる存在が1人いるだけで、それが地獄の中の一筋の希望の光となって何とか日々を繋いでいける。そんな存在の有無がその後の人生を大きく左右する。
「進撃の巨人」28巻 by 諌山創
でもそれがなくただ追いつめられるだけの何十年を過ごさなければならない時、秋葉原無差別殺傷事件や京アニ事件、滋賀医科大学生殺害事件(母親に九浪を強いられた娘の事件)みたいなことが起こってくる。そのどうしようもない苦しさが巨大になり過ぎて抑えきれなくなった時、暴発が外に向かえば上の事件のようになり、内に向かえば自死・自傷となる。エネルギーとは必ずその発露を見つけようとするものなので、そう現象化せざるを得ない。
そしてそれは本来、その子ではなく虐待を続けて来た大人の事件であり責任であり犯罪なのです。
上に紹介したシーンは普通育ち or 幸せ育ちさん方にとってはメインディッシュの端にあるパセリ程度のものでしょう。でも地獄を生き抜いて今も何とか生き延びている、自分の心なんて何度殺したか分かりませんという人にはもの凄く意味のあるシーンなのですよね。
まあしかし毒親育ちでなくともこの作品は本当に素晴らしいので、読まないと損ですよ。
ああ、未読の人が羨ましい!(←まだ言ってる・笑)
本日もお読みいただきありがとうございました。
余談:
ちなみに上のシーンの両親は実は毒親というのともちょっと違います。
彼らは自分たちの種族の尊厳を取り戻すべく人生を賭けて闘うことに夢中で、そこに実にナチュラルに子供を引き入れてしまった。子供の気持ちまで考える余裕がなかった。自分たちの掲げた大義名分に完全に憑依されている状態です。
そしてその息子に死地に追いやられたあと被害者ぶることなく、自らのしてきたことを振り返り心底反省し、第二の人生では全く別の生き方(子育ての仕方)を選びます。
現実生活でのサイコパス毒親というのはそんな立派な目標や正義などとは無関係。ただ如何に楽して “寝て食って垂れる” 寄生虫生活を続行できるか、指一本動かさず世界に承認されちやほやされるか、くらいのことしか考えていないもの。そして何があっても自己反省などしません。常に自分は100万%正しい被害者。
そんなものに奴隷のように扱われる被虐児の環境は、マンガのシーンより何倍も最低ではありますね。
ただこの少年の紆余曲折からの最後に開眼して散っていく様も本当に素晴らしいので、お勧めし切りなのです。
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