算命学はちゃんとマスターしようと思うと大変時間がかかります。
勉強は一生続くものというのは大前提として、教科書や秘伝、原典など徹底的に自分のものにするためにはもの凄い膨大な情報を整理整頓&理解しなくちゃいけない。それを自分の言葉で全て説明できるようになるには普通にやっても何年もかかるなあとよく思うのです。
ところでここでまたあの世系の話になるのですが、あの世にアクセスした時に得られる情報は膨大です。
私はあっち側の世界に自らアクセスしようと思って出来るわけではありませんし、そこで得る情報を自分で選べるわけでもありません。今まで数回繋がった時も向こうから勝手に繋がって来て、そしておそらく(向こうの存在が私に必要だと判断した)分だけの情報を与えられた。それだけです。
ただいつも書いているように、本当に0.00001秒ほどのほんの一瞬しか繋がらないのに、そこで瞬時にダウンロードされる情報量はもの凄く大きい。
その情報インプットシステム、くれ!
と昔から暗記が大の苦手な私はよく思います(笑)
それもその瞬間に分かることだけでなく、お土産としてその後ゆっくり必要に応じて展開される情報の塊。いわばZip圧縮形式で膨大なデータを渡されるみたいなこともくっついてきます。
一瞬しか繋がることはできないのはおそらく
① この世の人間として生きているのにあの世に顕在意識を伴って繋がるのはルール違反だ
ということとは別に
② あの世で得られる情報を人間に好きなだけダウンロードさせると人間自体がパンクしてしまうから
なのではないかと思っています。それくらい情報が吸収されるスピードが尋常じゃない。
何故こんなことを書いているかというと、今私が細切れ時間にせっせと繋ぎ繋ぎ読んでいる原典算命学大系、全11巻。
ものすごい分量なだけでなくとにかくいちいち内容が濃い。
濃縮還元ジュースというのがありますが、まだ還元してない濃縮状態。
もしくはチューブに入った濃縮トマトペースト
を直にチューチュー吸ってるくらい濃い。濃い。
原典を制覇するというのは、このトマトペーストをあと1万本はチューチューせなアカンぞ~!くらいの感じ。
でもそれはいい。むしろそれがいい。そうでなくっちゃ!という感じ。
私は定位置に鎮座する龍高星持ちなので、ちょっと覗き込んだら底が見えるような浅い池だとがっかりしてしまう。一生かけてもどこまで行けるか!?くらいの遥か高い智の山に挑むくらいじゃないと逆に先行き不安になってしまう。なので
これで私の龍高星は一生遊び倒しても遊び尽くせないほどのテーマパークを見つけたぞ!(大歓喜)
状態なのです。
そしてそれ(算命学制覇)は上に書いたように、あの世に繋がれば、つまり死んであの世に渡ってしまえば一瞬で全部理解・把握できてしまう真理の世界だというのも知っています。
今頑張って本を読んだり纏めたりしなくとも、死んでしまえば当然の話として自分の中に入ってくる、それも全部完全に。『人間はこの世で生きて行くには呼吸しなくちゃダメだよね』くらいのちょっとした情報感覚で、軽く普通に全部自分のものになる。
でも生きている間に面倒な勉強という作業を重ねて重ねて理解して、身につけなくちゃ意味がないのだよね。それでこそ意味がある。それは分かる。何故かは分からない。でも楽し過ぎるから続ける。
そしてここからが本日書きたかったことなのですが(つまりここまではながーい前置きですぞ)、このとんでもない膨大な情報量の算命学。トマトペースト1万本分な原典。
これをだよ、たった48歳という短い人生でマスターして本に纏められて、伝授もなさった高尾宗家について思う時、気付いたのですよね。
全部とは言わないまでもこの中の一部もしくは半分以上は、高尾宗家もあっち側に繋がって知った話だな
と。
何故なら、私も算命学を学ぶ前から知っていた(けれどもちろん誰にも言ったことはない)話が算命学にはちょくちょく出てくるからです。例えば異気集合論の根本的な所とか。初めて読んだ時
え!これ私以外にも知ってた人いたんだ!?ていうかどこで知った??
ってなりましたからね。
高尾宗家はもともと無茶苦茶霊感が強かったというお話を聞いたことがあります。ならば尚のこと、霊感=零感な私ですらちょっと繋がって情報をダウンロードされるようなことがあるのだから、宗家ならもっとスケール大きく何度も繋がってらしたかも知れない。もしかすると繋がる以前に、ある意味私のように物心ついた時から知っている情報があって、それを算命学で理論として再確認したということなのかも知れない。じゃないとあのトマトペースト1万本を短い一生で・・・の説明がつかない。
まあもし仮に本当にあの世系ネットワークで真理を直ダウンロードコースだったとしても、今度はそれをこの世の言葉に翻訳するのがこれまためちゃくちゃ大変なのです。針先でほんの一瞬チョンと突いただけの情報でも、この世語に直すと大変な量になったりする。
そして再び「いちいち言葉に直さないと誰にも伝わらないというこの世のシステムってやつは全く・・・」となる・笑
宗家がお亡くなりである今真相を知ることは叶いませんが、おそらく私の推測は中(あた)らずと雖(いえど)も遠からずなのではと思っています。
本日もお読みいただきありがとうございました。
原典読みかけの私の机の上(物騒だな)
エドワールト・コリール『ヴァニタス-書物と髑髏のある静物』1663年
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