前回の続き:
大昔の中国で今ほど学問が多岐に渡って展開されていなかった頃、あってもレベルがまだ今ほどではなく一般市民の教育も行き届いていなかった時代。人々は星の観察からスタートしこの世界を、自然を理解しようと陰陽と五行の法則を見出します。当時の人は全てを陰陽五行のバランスから捉えていた、そしてそれが一般常識だった時期があるのです。私にとっては彼らと同じようにその感覚を身につけることが、算命学を勉強し続ける目的にもなっています。何故なら今ある常識とは全く違う視点でもっと自分を、そして世界を深く理解できるようになりたいから。
そして勉強が進んでくると、どの単位でどこがどうバランスが崩れてこんなことになっているのかというのが本当によく分かるようになってきます(一極二元論ですね)。こんなものの見方は教えて貰わなければ思いもつかなかった。それが面白くて堪らないのですが、それはともかく。
人間は一人で一つの有機体です。一つの有機体としてスムーズに機能していくことが幸せのベースにもなり、そのために自分の中で取るべきバランスが沢山あるのは皆様ご存知の通り。精神と肉体のバランス、内と外の活動バランス、静と動のバランスなど。
ただ人間は完全に一人で生きているわけではなく、自分の属するチームにおいて必ず何らかの役割もある。
人間同士の最小単位のチームは夫婦。次が家族、家系、そして学校や職場、住んでいるコミュニティや国、そしてアジア(EUやアフリカでも)など、世界全体、最終的に宇宙全体。
各ひとまとまりの中で、自分はそのつもりはなくとも必ず誰もが何らかの役割を負っています。
それぞれの1単位の中でもやはり構成要員がバランスを取り合いながらその単位を存続させ、それは絶えず変化し、発展したり凋落したりしています。
しかし人間というのはどうしても形あるもの、視覚的に認識可能なものに引き摺られる傾向があるので、どうしても華々しい活躍ばかりに意識が行きます。そしてそちらばかり追いかけ賞賛し、その陰で支えになっている人を邪険に扱ったり、価値の低いものと判断したりしがちです。そこにあるのが例えば専業主婦か兼業主婦かの議論や、子供ありかなしかの議論や、職業に上下を付ける風潮や、成功不成功の定義一般などですね。
もうこれがあらゆる災い・不幸の原因なんだよね。
華々しい活躍の陰には必ず支えがある。
そして両者のバランスが取れてこそ、それが継続・発展していける。
たとえばコンサートでは舞台上の人ばかりに注目が行くけれど、ホールを抑える人、チケットを手配する人、照明係、ポスターやプログラムを準備する人、当日人員整理する人・・・細かいところまでみて全体のバランスが取れてこそ成功。
そしてこれは『運』といった形のないもの、目で確かめられないものも完全に同じなのです。
前回の記事で箇条書きにした様々な例、あれは本来家系の中で自分はどのポジションでどうバランスを取っていく役を任されてるのかを読んでいくもの。というより宿命というのは、そこに真骨頂があると思っています。
ケネディ家のシリーズ記事でも書きましたが
家族でも家系でも、華々しく活躍する人がいるということは、それだけ舞台裏で支える人の負荷も大きくなる。
高尾宗家の言葉では以下のように書かれています。
煌びやかなところだけを見ていると立派なように見えるのですが、人間が伸びる時、良くなる時は何かを犠牲にしているのです。
人助けもそうです。人を救うことは美徳のような感じがしますが、一人を救えばその反対に1人が犠牲になるわけです。
その犠牲というのは一個人で言えば遊ぶ時間とか、睡眠とか、食べたいものを我慢するとか、まあ想像がつきやすいこと色々です。
それが家族・家系の単位になってくると表に出る人の裏に必ず裏で支える人が出て来る。算命学的に言うと犠牲。表に立つ運の人がいれば、陰で存在する運の人もいる。両方いなければ成り立たないからです。
ここで申し上げたいのは、そういう成功の陰の土台になっている人たちを決して排斥してはいけないのです。
もし排斥するととんでもない運のしっぺ返しがやってきます。
そういうところに気付くのが、人間のモラルというものであるはずです。
別にしっぺ返しといっても、棍棒を持った目に見えない地獄の大魔王が罰を与えてやろうと待ち構えているわけではなく、単にこの世界は陰陽のバランスを取ろうとするからに他ならないのです。船の片方にばかり荷を積めば船が転覆する、あれと同じです。
もうちょっと続きます。
Moss Roses in a Vase, 1882 Edouard Manet
本日はバレンタインデーですね。私も夫にバラの花束を頂きました。
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