私は子供たちに割と細かいことまで自分でどうしたいか聞いて、それをできるだけ尊重するようにしています。
例えばランドセルはどれが良いか、靴が破れたら新しいのはどれがいいか、上着の色は何
楽器をするにしてもどの楽器がいいか、スポーツの方が良いのか
旅行に行く時におもちゃは持って行くのか、持って行くとしてどれが良いのか。
えっ、そんなの当たり前じゃないの?
と思った仔羊たちよ、汝らは幸いなるかな by ルカによる福音書 第582節 ← ウソです
というのはあながち冗談でもなく
あなたはどうしたい?どう思う?を尊重してもらえる環境で育った人はそれだけで大きな財産 です。
私は子供を育てるようになって自分が親に全くそんなことを聞かれたことも尊重されたこともないことに気付きました。
いや、正確には聞かれたことがあるな。
ほんの幼稚園時くらいの小さい頃、映画に連れていかれてその後家で両親を前に感想を聞かれる。
そこで私は無邪気に返事をするわけですが、その感想を徹底的に否定し、罵倒し、叩き潰し
そうじゃないだろう!と怒声を浴びせられ
親の期待する感想 つまり正解を言うまで正座であれこれ言わされ続けるわけです。
もう私自身の感想でも考えでも何でもなく、親の期待する答えを当てる当てものクイズ。
何の楽しみもなく、教育ですらない。ただの虐待。
その後映画を観ることに長い間トラウマを抱きました。
そういうことが何度も続きましたが、それ以外はあらゆる分野で一切私の意見は無視され
親の世間体に貢献する便利なアイテムとして右に左に勝手に動かされ利用される日々。
私の経験は極端にしても、子供の感性を重んじ、子供がどういう人間なのか、どうしたいのかを本当に尊重される場は日本では少ないかも知れないと思います。
学校に行けば
前に倣え、小さく前に倣え、休め、座れ
起立・礼・着席 をはじめ
何故そんなことを?何のために?誰に向かって命令してると思ってんの?何の役に立つの?
といったことは説明すらされず、いいから黙ってやってろと押し付けられる。
教師も機械的・無思考に流されてやってるだけ。
ゴミみたいなデザインの下らない制服を高値で押し付けられ、年中ほぼ洗濯のチャンスもなく着たきり雀
鞄はこう、体操着はこう、髪型は下着の色は上履きは靴下の色はこう、コートは禁止、手袋マフラーはこの色だけ etc.
勝手に決められそこに選択の余地はない。
合唱コンクールにマラソン大会、運動会、遠足、修学旅行に文化祭
参加したいか否かを聞かれることも、理屈の通った必要性が説明されることもなく、慣例だから皆やるからで押し切られる。
長い学校生活だけでも、無数の細かな疑問や拒絶の意思が丸ごとなかったことにされ
ベルトコンベヤー上の無機質な商品として右から左に流されるだけの何年をも過ごす。
その有害さったらもう。
やっかいなのはその押し付けの中には “ 挨拶をする ” といったような身につけて本当に意味のあることも含まれていること。
要らないものも要るものも個別丁寧な吟味などなく、とりあえずごった煮状態で押し付けられる。
その有害さったらもう。
かなりの年齢になっても
自分が何をしたいのか分からないのです
という人は多い。
自分が本当は何をしたいのか、どう生きたいのかというのは
自分の意志を周りに尊重され自分でも尊重できる環境で生まれ育っても、見つけるのに時間が掛かるものなのかも知れない。
多分そうだ。
そしてそれが見つからない、分からないからと言ってダメなわけでも人生終わりなわけでもない。
ただ自分だけの宝物を見つける途上にいるというだけ。
けれども
自分が本当は何をしたいのか、どう生きたいのか、本当のところを見つけたい時に絶対不可欠なのは
日々の細かい「 自分はどうしたいのか 」を感じ取る作業とそこからの決断、その積み重ね。
それを通してしか自己確立は出来ないな、と思う。
それを通してしか本当に自分が何をしたいのかは見つからない。
自分探しの旅に出て、ある日突然アゼルバイジャンの片田舎の食堂で自分を発見したのです!なんてことはない。
もっと日常的で地味だけど、長い時間を掛けて少しずつ自分で自分を掘り起こし、栄養を与え、育てていくものだと思う。
この世に生まれてくる時に全部忘れて来た大事な本質の世界を、少しずつ思い出す作業。
なのに大事な成長期にその一番大事なところをうやむやに全て誤魔化され、他人に決断を押し付けられ
それに粛々と従っていれば良しとされ、人生そういうものなのかと無意識の諦めとともに生きていて
ある日突然人生の大きな決断を正確に下そうと思っても、そりゃあ無理があるよと。
基礎練習も練習曲すらも全然日頃からやってないのに、いきなりコンサート本番やって?と言われるのと同じ。
でも 人生とはこういうものだ でねじ伏せられるのに慣れてしまうと、あらゆる細かい場面で本来の自分とはズレる決断を無意識に下してしまう。
自分の気持ちや感性に従うのではなく、これがよしとされる世間のお手本に流されてしまう。
そのズレはどんどん積み重なり、大きくなるほど自分が苦しくなる。
身につけるものだろうが進学、転校、部活、部屋のカーテンの色に至るまで
あなたはどうしたいのですか?なんてことは一度も親に聞かれたことがなく
全て親の決断を押し付けられ続けてきた私ですが
その反対に小さい時から携わってきた音楽の世界は、あなたはどうしたい?も何もその人の本性が直通モロバレの世界。
音の世界の話です。
( でも好きな楽器はやらせてもらってるじゃないかと思われるかも知れませんが、これも小学校の途中で勝手にやめさせられそうになり
これだけは諦めてはいけないと全力で長期に渡ってバトルして 後の小遣いゼロ条件 と引き換えに続けさせてもらったという経緯があります )
目に見える世界では自分を押し殺し、手本に近付くほど良しとされる。
音の世界では自分の本当の部分、現実生活で嫌がられるので押し殺し続けている自分の繊細な部分、弱い部分すら
そこに焦点を当ててクローズアップしてストレートに表現するほど あなたの演奏は素晴らしいわね と目に見えて評価される。
この不思議に極端な真反対の世界。
その両方を長く続けて来たからこそ、私は今両方が見えるのかも知れない。
私はこのサイトの副題を
自分として生まれた以上、自分であること以外にすることなんて何もないのよ
としています。
これは今難しい人でも、時間はかかるかも知れないけれど
自分が存在する以上自分の本質は消えてはおらず、必ず感覚を取り戻せるもの。必ず。
少しずつ本当の自分を取り戻せばいい。
少しずつ自分の宝物に近付こう。
少しずつでいい。
投げてしまうより全然いい。
Andrew Wyeth ,Hour of Witchcraft 1977 魔術の時間
コメント
自分の魂が求めていたことが書かれていました。永久保存します。ありがとうございます。