からの続き
本日のお客様は「画狂老人」 「卍(まんじ)」 こと 葛飾北斎 さんです
パチパチパチ
この人は他にも「 群馬亭 」 とか「 月痴老人 」 など 生涯に30回も改号 しています。
変えすぎやしその命名センスは一体・・・自由万歳w
彼の人生、自由すぎて面白いところ抜粋( wiki より )
生涯に渡って93回転居、一日に3回引っ越したこともある
75歳の時には既に56回に達していたらしい
これは出戻り娘のお栄( 葛飾応為 )と二人、絵を描くことのみに集中し
部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからである。
料理は買ってきたりもらったりして自分では作らなかった。
居酒屋の隣に住んだ時は3食とも店から出前させていたので、家に食器は一つもなく器に移し替えることもない。
包装の竹皮や箱のまま食べてはゴミをそのまま放置。
土瓶と茶碗2、3は持っていたが自分で茶を入れない。
一般に茶を入れるべきとされた女性である娘のお栄(葛飾応為)も入れない。
客があると隣の小僧を呼び出し、土瓶を渡して「茶」とだけいい、小僧に入れさせて客に出した。
酒は飲まないが菓子と茶を嗜む。
訪問する時に大福餅7、8を持って行くと、大喜びし舌鼓を打った。
北斎は金銭に無頓着であった。
北斎の画工料は通常の倍を得ていたが、赤貧で衣服にも不自由する。金を貯える気は見られない。
北斎の画工料は通常の倍を得ていたが、赤貧で衣服にも不自由する。
米屋や薪屋が請求に来ると、包みのまま投げつけて渡した。
店はそれが多ければ着服するし、少なければ催促するという形であった。
このようないい加減な金銭の扱いが貧しさの一因であろう。
北斎は行儀作法を好まなかった。
大変そっけない返事をし、態度をとる人物であった。
衣服は絹類や流行の服を着たことがない。
雑な手織りの紺縞の木綿、柿色の袖無し半天。六尺の天秤棒を杖にして、草鞋か麻裏の草履を履く。
誰かから「 田舎者だ 」と言われるのを密かに喜んでいた。
また歩く時に常に呪文を唱えているので、知人に会っても気がつかないことがあった。
「 北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた 」
「 9月下旬から4月上旬までは炬燵に入り続け、どんな人が訪れようとも画を描く時も炬燵を出ることはなく
疲れたら横の枕で寝るし目覚めたら画を描き続ける。昼夜これを続けた。
夜着の袖は無駄だから着ない。
炬燵に入り続けると炭火はのぼせるから炭団を使う。
布団には虱(しらみ)が大発生した。」
信州小布施 東町祭屋台天井絵 『 龍図 』( 桐板着色肉筆画 )
晩年の北斎が炬燵の布団を被りながら畳の上に紙を敷いて絵を描いている。
不敵な顔をした娘のお栄が、箱火鉢に添いながらその様子を眺めている。
杉戸には「 画帳扇面おことわり 」と張り紙がしてある。
柱にはミカン箱を打ち付けて仏壇としている。
履き散らかした草履と下駄。
火鉢の後ろは炭と食品容器であった籠や竹皮からなるゴミの山。
「 火事は江戸の名物 」と言われるほど江戸は火事が多かったが
北斎は何十回と引っ越しを繰り返しながら転居56回、75歳になるまで奇跡的に火災に遭わなかった。
これが自慢で鎮火の御札を描いて人に渡したりしていた。( ← でもその後火事に遭うw )
普段の北斎は横柄ということはなく「 おじぎ無用 みやげ無用 」と張り紙するように、形にはこだわらない人物だった。
常に貧しく不作法な北斎であったが気位の高さは王侯にも負けず、富や権力でも動かないことがあった。
一般常識、流行、慣習など一切無視で我が道を突っ走る毎日。
ここまで日常的なアレコレに無頓着でも何とかお金が回っていたのは
この人が 天命を生きていたこと と 偏財という財星を2つ持っていたこと によると思われます。
偏財 は 人に愛される人気者の星で、人脈も財も自分に引き付ける。
特に自分が空っぽになった時、無一文になった時最も引力を発揮する。
それと 養 というこれまた『 赤ちゃんのように何もしてなくても周りに影響を与えつつ可愛がられ愛される星 』がくっついて、更に中殺されています。
生涯天中殺みたいな人生です。
努力が形になると突き抜けます。
しかも原発持ち。
すごいわー
こういう宿命の人が天命のままに生きると、こんなとんでもなく面白い人生を送れるという素晴らしい見本ですね。
八方睨大鳳凰図
( ´∀`)σσ 明日に続く
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