本日の神の一曲、ラフマニノフのピアノコンチェルト3番。
『 僕は/私は変わってるんです、変わり者なんです 』とやたら声高に主張する人ほど全くそんなことないのは何だろうね。そういう人は命式を見ても普通命式だ。特殊命式じゃない。極端な偏りもない。大変俗世に馴染みやすい命式だったりする。そしてやはり大変俗世間に馴染んで生きている。ああやっぱりな、と思う。
本当に変わっている人(特殊命式の人)というのはその自分に備わる「 周りとの極端なズレ具合 」に辟易している場合が多く、どうにか周りと調和を保とうと「 自分の変わっている部分 」を抑え込もうと頑張ってみることに多大な時間とエネルギーを費やす。そりゃあもう何年も。疲れる。こんなに頑張っているのに周りと同じように出来ないのは何故なのか!と怒り混じりの絶望を感じることはあれど、間違っても無邪気に「 変わり者アピール 」はしない。
もしくは自分がぶっ飛んでることに全く気付かないほど変わってる。
おそらく変わり者アピールをする人は
その辺の奴らと一緒にしてくれるなよ、自分は特別なんだからな、すごいんだぞう
と言いたいのかも知れないね。そうして皆の気を引きたいのかも知れない。寂しいのかも知れない。
でも誰かが特別か否かの話になると、別にその人だけが特別なわけでなく万人がそれぞれに特別なんだ。命式を見れば分かる、皆別々バラバラの命式なのだから。この人は特別でこの人は特別じゃない、という風に表向き見えるようなことがあっても、皆実は間違いなくどんな些細なカラーでも必要とされる特別性を持っている。ただそれを自分や周りに喜ばれる使い方してる?してない?の部分で見え方が変わるだけ。
命式を見ると周囲に、つまりこの世に馴染みやすいのかそうでもないのか分かります。
別に二択ではありません、もちろんグラデーションですが。
そしてこの世に馴染みやすい、つまり現世のメインストリームを生きやすい人は、何か困ったことがあってもやはり現世的、この世的、世俗的、現実的解決方法で何とか解決法を見つけられる。メインストリームに存在する解決法。そこで事足りる。
しかし不思議な “ 気 ” が混ざって生まれてきている人は、そこじゃどうしても解決方法が見つからない、疑問は膨らむばかり・・・なんでなの!?となりがちで、それでも絶対に何かしら解決の糸口はあるはずだと根性であれこれ探るうちに算命学に辿り着いたりするのです。
以前ここにも書きました:
私が鑑定する方々はやはりそういう流れでこちらに辿り着き、やはり変わった命式、メインストリームに乗ろうとすると無理がある・しんどい命式の人が多いので、現世に馴染みやすい現実的な命式なのに変わり者アピールをする人を見ると「 どうしたのかな 」と思ったりするのです。全然悪いことじゃないけどね。
私たちは現世で生きている以上、現世的現実的なメインストリームに乗って生きられる命式の方が生きやすいという部分はあり、それは有難く感謝すべきことなのですよとお伝えしたいな。
The Roses of Heliogabalus, 1888 by Lawrence Alma Tadema
メインストリームに乗っている19世紀終盤パリピの皆さん
本日もお読みいただきありがとうございました。
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