ドイツのMagdeburg/マグデブルクという街で、クリスマス市に集まる人込みに車で突っ込んだサウジアラビア人医師。
15人が重傷、その他怪我人多数、死者2名と今のところ出ています。が、現場の動画を見るとそんな人数では収まらないでしょう。
早い段階で犯人の身元情報(パスポート情報)が出回っていて、その情報は正確ではないかも・・と思いながらも命式を見てみました。
ああ、多分この人で合ってる。
実行を決めたのは2日前だ。
私は龍高星持ちなもので、自らの経験からしか本当には納得しないという性質があります。それが濃い。
なのでまた自分の話を交えながら書いていくことになるのですが。
魔が差すという言葉。
あれって本当に『差す』だけなの?
本当に一瞬だけの話?
とここ1か月くらい思っていました。
毎年運気的に苦しいこの時期、調子の悪さがピークだったとは何度も書いている通りなのですが(鬱陶しかったらごめんよ)、その感覚というのがよく分からない魔の世界にすっぽり入り込んだ感じなのです。
一瞬ではない。ずっと。
魔に貼り付かれていると言ってもいいかも知れませんが、もっと広い範囲。自分の半径数メートルの空間がずーっと “魔” の感覚。
文字に直すと中二病っぽいですね。でも他に言い方を思いつかないな。
今は9割方抜けましたが、その前後とその時とでは全てのものの見方が根底から変わります。
まるで別人。
まるで別世界。
渦中はその苦しさに耐えるのが本当に精一杯。
頭では何とか前向きに、元気を出さないと、大丈夫だからと自らを励ましつつ乗り切ろうとするのですが、本当によく分からない怒りとか不快感、ムカつきなどにぐるぐるに絡め捕られっぱなしなのです。
魔が差して〇〇した、といういい方がありますが、差すとは一瞬。
でも本当はそれ、一瞬だけの話ではなくそういう世界にすっぽり入り込んでいた時期なんじゃないの?
しばらくそれが続くから、そして今はそういう時期だとか、その時期を抜けるとまた頭がすっきり元気に元に戻るとか知らないのもあって、自暴自棄に走っちゃったのではない?
その期間内にも波の上下はある。
その中で苦しさのピークの点で、耐えられなくなって破壊衝動が起きてもおかしくない。
私が見た上記の犯人らしき人の命式では、今まさにとても苦しい時期。
でも、こういう運気が大きく揺らぎ苛酷な方向に動いていく時、心に欲を持たなかったり、精神面の次元が上がって成長していればどんな運気でも大難にならず乗り切れる、といわれます。
それはつまり、自分の心の中の不安定な揺らぎの種をそれまでにどれだけちゃんと片付けているのかということとも言えます。
そこを見つめて見つめて、深堀して、自分ととことん話し合う。
種を整理し片付ける方法を捻出して、できるだけでいいので実行に移す。
その過程がとても重要。
完結しているか否かは実はあまり問題ではない。
私がこの1か月のたうち回りながら自分の内側をずっと見つめて、出てきた核となる言葉は
私は存在してはいけない
でした。
どの世界、どんな場所であろうとも、私は存在してはいけない存在なのだ。
存在する価値がない。
実家にいた時にずっとくっついて離れなかった、そんな感覚が私の中にはまだあった。いや、まだある。
それが苦しみの原因だった。
知るだけで片付くわけではない。まだスタートを見つけただけ。
きっと今回のテロの犯人にも、内側に自分を深く突き刺している自傷言葉がある。
自分の内側から滾々と豊かに湧き出て、毛細血管に乗って全身の隅々までぴっちり行き渡る毒。
その毒の源泉を辿ると何年も刺さりっぱなしになっている自傷言葉が必ずあるのです。
お亡くなりになった方々にはご冥福を、お怪我をなさった方々およびその身近な方々には心身ともに早期の回復をお祈り申し上げます。
本日もお読みいただきありがとうございました。
まだしばらくクリスマス市は続きます。
今後は平和に楽しめる場でありますように。
Christmas Market, Georg Janny (1864–1935)
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