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自分という土壌に種を撒いて花を咲かせていくのが人生

 

人間は土壌だな、と最近強く思う。

実は意識していないようなところにおいても、自分という土壌には種が撒かれていて

それがどんな形であれ花開いて行くのが人生だなと。

子供たちに日本語を教えていて、ちょっと前までは想像も出来なかったようなことが出来るようになっているのを見る時

特にそれを強く感じる。

でも言語を教える、算数を教える、楽器を教えるといったようなことはそれをより認識しやすい場面なだけであって

実はその種というのは自分が身を置く環境の雰囲気や価値観といった、普段特に意識しない空気のようななものもそう。

いや、むしろそちらの方が自分という土壌に満遍なく浸み込み、隅々にまで根を広げ

それが後に花開き時には大木や森になって、自分という人間やその人生を形成する。

 

種というのはつまり

人間関係を上下関係でしか捉えられず、上に立って下を利用することでしか人生は充実させられないと考えるのか

人は肌の色や国籍、性別など目に見える部分でその価値が異なると思うのか

人生とは基本苦しくて苦虫を噛み潰したような顔でひたすら耐えて乗り切らなければならないようなものなのか

思い切って好きなことに突っ込んでいく方が道は開け、満足度の高い人生を送れると考えるのか

自分は大切にされる価値のある掛け替えのない存在であって、だからこそ他の人も同じくそうなのだと考えらるのか

家族や会社、コミュニティーにおける役割というフィルターを通してしか人間を見て判断することが出来ない、それが人間の全てだと思うのか

役割と人間そのものの価値は全く別次元の話だと認識できるのか

家庭では両親は不本意ながらも性別による役割分担に甘んじて毎日ゲンナリしながら生きるものであり

父親は思い通りにならなければ制裁として外で好き勝手しても良く、家では暴力をふるってもいいもので

その犠牲になる母親は不満のありったけを子供にぶちまけ当たり散らしてもいいのだ、それが家庭というものだと考えるのか

世間の模範とされるスタイルなんぞ意に関せず、完全に開き直って自分たちらしいスタイルを築き無理なく笑っていても幸せな家庭を築くことはできると考えるのか

自分はこの地でしか生きられないと思うのか

世界中人間のいるところならどこででもいくらでもどうにでもなるだろうと、大船に乗った気分で人生を乗り切ろうとするのか

世界というのは目に見える部分だけしか存在しないと考えるのか

実は目に見えない世界も大きく存在していてその影響力は無視できないと考えるのか

など

 

そういったことをいちいち言葉に直して教えて貰わなくとも人は、特に子供は自分という土壌に種として取り込んでしまう。

自分を取り巻く空気が種となって自分に沁み込む。

それらが知らない間に着実に自分の中に根を張り、嬉しかろうが嫌だろうが時間が経つと芽を吹き花を咲かせてしまう。

花を咲かせよう、木々に育てようと本人が意識しなくとも、それは勝手に熟成され目に見える形で育って行ってしまうものだ。

その自分の土壌に咲き乱れる花々や木々こそが自分自身であり、自分の人生であり自分の世界でもある。

 

だからこそ子供たちには

自分は人として大切にされるべき存在であり

人生は自分で自由に取捨選択して切り開いて行けるしそうすべきものであり

周りが何と言おうと自分カラーで染め上げて幸せに生きることが出来るよ

という空気を提供したい。

少なくとも家庭内だけでもそんな価値観や環境の中で土壌形成をして行って欲しいと思う。

 

そしてこれは大人でも全く同じで、だからこそ自分が身を置く環境はもの凄く大切

自分が意識しているよりもはるかに自分に影響を与えるから。

どんな価値観の集団の中に身を置いているのか

自分を人として尊重してくれる人と関わって生きているのか

自分という土壌に撒かれる種を子供の時にはただ吸収するだけ。

でも大人になれば種を自分で選択していくことができる。

そこは諦めなくていい、自分で満足いく種を選んで自分で撒いて育てて行けるんだよ

という種を子供たちに提供していきたいな。

 

Girl Kneeing by a Cradle, 1883 by ゴッホ 赤ちゃんの頃はまっさらな土壌

 

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