ロシアがウクライナに戦争を仕掛けた時、西側メディアのレポーターが攻撃を受けるウクライナ国民について
自分と同じ目の色をして同じような暮らしをしていた人たちが、こういう目に遭っているのを目の当たりにするはショックだ
みたいなことを言っていて物議を醸したことがあった。
人の命の価値は同じだ~目や肌の色、国籍なんかで扱いが変わるのは人種差別~!ほれ見ろやっぱり白人どもは白人を特別扱いし、有色人種は猿くらいにしか思ってないんだ~ボクチン・アテクシは知ってるんだ~!
みたいな意見を沢山見た。
本当にそうなのだろうか?と思った。
実際そのような人種差別感情が全くないわけではないだろう。けれども人間の本能の一つに親近感というものがあり、同じような事象でも親近感のわくものに意識が引かれるというのは至極当然のことじゃないかな。
今私がウクライナでの出来事を全く他人事ではないと放っておけないのは、(もちろん人種的な話ではなく)物理的な距離が近いから。ウクライナの街の様子や生活の様子が私のそれととても似ているから。これも親近感の一つ。
でも仮に物理的な距離がどーんと遠くても、それが東アジア人という自分と同じような目の色・肌の色に大変馴染みのある外見の人々に起こっていることであれば、やはり同じように気になって仕方がないだろうと思う。それは人種差別といった思考の入り込む以前の、ある種脊髄反射的なものなのだろうと考える。
それと同じように
ウクライナからの避難民は受け入れるのにシリアやアフガニスタン、アフリカなんかからの避難民は無視や強制送還か~?人種差別ー!!
みたいなのもよく聞く。ここで思うのは、この記事で書いた3つ目。
誰かに親切であろうとする時に絶対に必要なのが『 余裕 』。何もかもを助けられるような人や国は存在しない。誰かに本当の意味で救いの手を差し伸べられるのは自分が満たされ、しっかり自分で立っている人。その余剰分で始めて誰かを助けられる。
逆に言うと承認欲求を満たしたいがためだけに、自分一人だけでもギリギリ状態で余剰(つまり余裕)が無いのに外でいい格好して誰かを助け始めても、結局は相手も自分も、そして自分の周りの大切なものも巻き込みながら全てが蟻地獄のように奈落の底に引きずり込まれていくだけ。全部共倒れ。これは絶対にしてはいけないことであり百害あって一利なしなんだ。
子供の頃、大人になったら世界の全ての問題を知って、理解して、その全てについて責任を負い解決に向けて頑張らなくちゃいけないんだろうか??と真面目に思っていた時があった。
今なら分かる。
全世界を理解し、背負って、助けよう!と思わなくていい。何もかも背負い込まなくていいしそんなことは不可能だ。自分のできる範囲で十分。自分の心の動くことに特化して、余裕があればその問題解決や援助に尽力すればいい。
例えばフェミニズムやミソジニー問題。私も女性なので真面目に読んでみたことがあるけれど、実は話がすっと入って来ない。関係あるはずなのだけど自分があまりそういった問題に巻き込まれてこなかったからか(?)それらの話はいつも半透明の分厚い壁の向こうにあるような感じがする。
それとは対照的に私が隅々まで細かく分かってしまうのが、個人の感情の話。
人間もこの世界も “ 目に見える有形の世界 ” と “ 目には見えない無形の世界 ” の2つからなっている。物理的世界に関してはこの世の中、無数に理解の方法も解決策もある。飽和状態と言えるほどに。
でも無形の世界に関しては目に見えない分だけ、何というかまだ発展途上段階にすら到達していないのがこの世界。
そしてその無形の世界の問題の根本はいつも “ 個人は無形の世界で自身をどう作り上げてきたか ” であり、それは突き詰めていくと必ずその人と親・家系の問題に行き当たる。
そして前者のイマイチ分からないことにまで食指を伸ばす暇があるなら、自分がよく分かる部分に特化してそこで誰かの、社会の役に立てばいいよ、ということなのだろうと私は解釈しているのです。だって人は何もかもを抱え込める神のような存在ではないから。
出来ることだけでいい。自分一人で全世界の問題を処理しよう、全世界を救おうと思わなくていい。
“Zaporozhian Cossacks write to the Sultan of Turkey” by Ilya Repin (1844–1930)
レーピンの代表作の一つ、これもウクライナのコサックたち
本日もお読みいただきありがとうございました。
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