この記事の続き的な。
“無駄” についてだって同じだ。
そんなことしても無駄だよ
無駄なことばっかりやってる
随分時間を無駄にしたね
無駄にお金を使うんじゃないぞ
何の気なしに人が言うそれは本当に無駄なのか。
それが本当に無駄 なのか 必要 なのかを判断できるのは本人だけだ。
それも本当にそれが分かるのは死に際以降。
その人が何を目的に生きていたかなんて、その人にしか分からない。
その人がどんな課題をもって魂の旅をしているのかだって、その人にしか分からない。
その魂の旅路のどのフェーズにいるのかもそう。
その人が何が好きで何を喜び、何をありがたく思うのか、何が嫌いで何を不要とするのか。
本当のところはその人にしか分からないように出来ている。
というよりも正しくは その人がこれだと決めたもの、それが解となる。
だから算命学だって、その『本当のところ』に辿り着くざっくりした道標に過ぎない。最後の最後まで手取り足取り引っ張ってくれて、これですよと具体的な解まで与えてくれる何某かでは決してない。
逆にいわゆる “役に立つもの” だけを追い求める人生を送った人の末路に興味がある。彼らは死に際に何を思うのだろうね?
なんてことを考えていた時、偶然この作品を見た。
。
いやもう素晴らしかった。
なんだこの芸術作品は。
これはもう漫画やアニメをの皮を被った哲学だろう。
どんな人も迷いながら生きている。
そんな中、本人ですら分からないと考えあぐね続けるようなことに、さも知ったかのような顔をして恥ずかしげもなく “無駄” “必要” のシールを貼る人には
自分以外の誰かの人生にとってそれが 無駄 なのか 役に立つ のかを判断できると本気で思ってんの?
お前ごときが?
って言えちゃうわ。今ならこの顔で。
結果なんて分からない。
ならば後悔のない方を選ぶのだ。
誰も他人の人生に責任を取ることなんてできない。
ならば私は無責任に背中を押す人でありたい。
本日もお読みいただきありがとうございました。
Potato Harvest, Camille Pissarro
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