昨日また夜中に瞑想していました。
するとおでこの前2~3mくらい前がほわんと明るく暖かい感じがするのです。
気のせいかな?と思って感じ直しても、小春日和に室内で窓ガラス越しに午前中の陽を浴びるあの柔らかい感じ。優しく、ほかほかじーん・・・と気持ちいい。別の方向に向いて座り直してもやはりそちらの方から暖かいほわほわが来る。
瞑想の集中を中断したくなかったので目は閉じた状態のまま
なんだろ?その辺に何かあったかな?
と記憶の中で部屋を見渡してみたのですが
分かった!!
まさに私の向かいに3~4mほど離れて部屋のドアがあり、その真上に天照大神のお札を張っていたのだった!!この間の一時帰国の際に日枝神社で頂いてきたもの。
そんな大事なものを忘れているなんてなんと罰当たりな。そしてなんと有り難い。こんなにほわんと暖かい何かが出てたんだ~!嬉しいな。
『岩戸神楽ノ起顕』1857、歌川国芳
さて。
今十大主星になぞらえたエネルギーの循環、現実の人生では何がどうなってエネルギーが次の段階に移っていくか、みたいなところの話を読んでいます。この説明ではなんのこっちゃ?ですね。まぁいっか。
いやもう面白くってね!
毎度のことながら、一文進むごとにいちいち
そう
そうっ
それやねんそれ!
ぬおおおおお!!
となりながら納得し興奮し、血沸き肉踊り、感動しながら読んでおります。
だから全然進まないのだ。いいから落ち着いて読め(笑)
親不孝な子が反抗心から家を飛び出せば親は嘆き
子供のために今まで頑張ってきた、こんなに良くしてあげたのに
と愚痴の一つも言いたくなるかも知れません。
しかしそれは子供に人生の責任転嫁をしている親だと言わざるを得ないのです。
結婚したのも、子供を産んだのも、子育てしたのも全て自分が行ってきたことであり、自己責任においてなし得た行為であるはずです。その結果何の見返りもなかったとしても、自分の責任において終結して行かなければなりません。
自分の責任において終結して行く時「子供のために」「あなたのために」という言葉は出てこないはずです。
こんな言葉を口にする親がいれば、実に無責任で知性のない親であり、親の地位を保つことはできない人です。(原典)
やぞ?(笑)
算命学のいいところは、日本社会にしれっと当然のような顔して紛れ込んでいる 有害な 儒教の混ぜ物がちゃんと切り離されているところです。
だから上記のように親子関係もフラットに観察して解析されます。
いますよね
あなたのためを思って~
とさも素晴らしい親ヅラしながら子供に全力でエゴを押し付けてくる親。
あなたのことが心配で~
といいながら本当に心配なのは自分の世間体。
勝手に阿保みたいなレベルの高い理想の子供像を作り上げ、子供に投影し、子供がそうならなかったら
こんなはずじゃなかったぁ・・・アテクシ・ボクチンが一体何をしたっていうの!?
ああ~アテクシ・ボクチン可哀想おおおおおおお!
と悲劇のヒロイン・主人公演技がばっちり板についてしまっている人。
そこに
自分の責任でやりました、よって最後の結果まで全部責任を負います
という潔い責任完遂の姿勢は微塵もない。
もし行為の結果が美とならないとすれば、自分の行動そのものに 気・体・心 の一致がなかったということに他なりません。
ここでは一つ一つの項目でエネルギーを完全燃焼して初めて本当の意味で次に進めますよ、的な話をしており
美味しいところ取りだけで賢く(←は?)生きよう
なんてヌルイ進み方ではずっと堂々巡りで進化しないよ、次元上昇はできへんなぁとなるのです。
人生何回生まれ直しても、犬が自分の尻尾を咥えようとしながらできずにその場をグルグル回っている、あの状態を何世も続けることになります。
それはイヤだよね!?
自己責任においての行為の中にこそ真に精神の向上があるものです。
子育てだってそう。
人生の精神向上には人間関係における修行場が必要となってきますが、最も意味を持つ重要な修行場が家族。親子、夫婦、血縁、家系。やはりここなのですよ。イヤですねー(笑)
何となく外だけそれらしくなっとけばいいってことにならんの?
と思いたくなりますよね。
ならんのだ、これが。
じゃあ上の例に挙げた親不孝(大して親不孝とも思えないが)な子供が出ないようにするにはどうすればいいの?子供って夫婦(男女)がいて出来るものだけれど、そこが上手く行ってれば大丈夫なんじゃない?じゃあ親になるにあたって何に注意すれば?ってそれってつまり良い結婚ができれば上手くその後も流れていくのではないかな?
じゃあそのためには?
みたいなことを次回書きましょうかね。
本日もお読みいただきありがとうございました。
「斎庭の稲穂」今野可啓
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