さて間が空いてしまいましたが前回の記事の続き。
人生は徳を積む&使うゲームですのお話、
そりゃまた一体どういうことだい?を以下の2点から書いているシリーズの2番目の方。
- あの世では徳を積みにくい。この世の方が遥かに徳を積みやすいシステムである。
- 自分と外とどちらを大切に?自己犠牲は素晴らしいのか。
周りの人間の気持ちを丸ごと無視で何でも自分に都合よく有利に進めようとするDV系、パワハラ・モラハラ系、そして特に毒親たちには言っていません。オマイらはさっさとシベリアにでも送られてなさい。
そういう人はしかし当サイトとは非常に相性が悪いに違いなくここにはおそらく来ていないであろう、と推測して以下の記事を書いています。
むしろ反対にそういった邪気塗れの人を目の当たりにしても『 自分が誠心誠意向き合えば状況は改善するかも 』と心身ともに磨り潰しながら頑張って生きている、真面目で素直で心優しいカサンドラ症候群系の人に向けて書いています。
自分と外側とどちらを大切に?自己犠牲は素晴らしいのか。
徳を積むというと何となく自分を犠牲にして相手に徳をさせる、的なことを思い浮かべますよね。
もちろんそれでもいいのです。選択はどこまでも個人の自由です。
しかし単純に考えると、じゃあ自分の人生や命を投げ打って誰かを生かすのが最大の徳積みポイントとなるか?みたいな極端な話にならないでしょうか?自己犠牲一遍が評価されるのであれば究極的にはそういうことになる。
あなたが自分の心身を無理やりに削ってでも相手に譲歩して、心を込めて相手や周りのことを考えて、真っ直ぐに愛を行動に移して生きているのに、相手はこちらを使いたい放題どんな風にも使える奴隷のように扱っていたら?それでも誠意をもって対峙することは尊いことなのか。現世で徳を積むことに繋がるのか。
そこでは相手は今まで積み重ねて来た徳分を食い潰しているし、あなたは徳を積んでいることにはなる。
でも目に見えない存在はそこでじっと観察しているのです。
あなたは同じように大事にされるべき存在ではないのか?
あなたはそんなに粗末に扱われていい存在なのか?
自分の気持ちや健康や人生をそこまで犠牲にしてまで、それは本当にしたいことなの?
あなたは一体いつ、誰に大事にされるのですか?
いつになったらあなたはあなたを大事にするのですか?
目の前の人や周りの人に敬意を払い、誠意を込めて真っ直ぐ向き合う。それは尊い。
でもそれと全く同じように自分のことも大切にしなくちゃいけない。この世界に生まれてくるチャンスを得るという激戦を勝ち抜いてようやく預かった命、そしてここで生きるというチャンスを自分で粗末にしていいとでも?自分のことをゴミのように扱う相手に捧げて不意にするようなことは本当に必要?
というのを実は目に見えない存在はじーっと観察しています。
優し過ぎる、相手のことを思い過ぎる、誠実で繊細な人はもっと自分のことを大事にしていい。
自分を大事にして自分がベストコンディションでようやく本当の意味で周りに最高のパフォーマンスが出来、自分も幸せ且つ周りに喜ばれ、徳を積むことができる。それも一発屋ではなく末永く。
今世でどれだけ徳を積んだか・食い潰したか、があっち側の世界に帰ってからおよび次回の人生でものすごくものを言います。
自己犠牲がやたら美談にされるこの世ですが、一発屋的徳積みは実は簡単なんだよね。
でももっと持てるあらゆるものを総動員して自分も周りも末永く幸せに出来るでしょ?さあどうする?をすごく問われているのがこの世での人生。
そしてそこで『 すること 』は職業の種類や役割を問いません。仕事であろうがなかろうが、お金を稼いでいようがいまいが、大事なのは『 誰かを幸せにした?喜んでもらえた?』というところ。
じゃあどうすれば一番いいのでしょう。
それは次回。
母親として子供のために出来るだけのことをする。それもまた大きな徳を積むということ。
Mother and Child, 1901 by Pablo Picasso
本日もお読みいただきありがとうございました。
コメント