随分前の記事にも書いたことがありますが
私の勘が冴えたり、というよりもっとはっきり言うと あっち側の世界に通じる時 って
台所で北東46度に向いて作業してる時に多いです。
で、去年12月末あたりに同じく台所でぼんやり作業をしていた時に
とても愛おしい
という感覚に自分が重なった時がありました。
それはこの世から随分離れた別の世界から、私ではない誰かが
この世に生きる人どんな人についても
そして全ての人たちの日々のあれこれ、出来事、経験、その時の感情・思いなどについても
とにかく全てが愛しいなあ~!
と しみじみ思って 眺めている感覚。
もちろん一瞬です。
私があっち側に繋がる時というのは、ストップウォッチでも記録し切れないくらい短い一瞬。
その「 愛しい 」という気持ちの対象は、この世界で生きている私たちにとって嬉しいわけではないこと
仕事で失敗したとか、体調崩してしんどいとか
子供の世話が大変すぎて全部放り出したいとか
友達と喧嘩したとか、親がダメ人間すぎて頭抱えてるとか
洗濯機が急に壊れて新しいのが来るまでしばらくは手洗いしなくちゃいけないとか
生きていると一杯面倒なこと、嫌なこと、耐えられないような苦しいことがたくさんありますよね。
そういう面も含めてすべて。
本当に全てが
ああ、愛しいなあ!
なのです。
何て愛しくて、微笑ましくて、尊いんだろう
と言葉に直すとそんな感じの感情。
そうなんだよ分かってる。
頭では知ってる。
あっちの世界から見たら、こちらの世界で経験する全ては尊くて、大切で、感嘆に値するもので、愛しい。
だってそれらは全てこちらの世界でしか経験できないことだから。
あの世ではありえないことだから。
頭では分かっていたけれど、実際に自分がその感情をその外側の視点から経験すると
その感情を思い出したい、再体験したい
と思うんですよね。
あの感覚をもう一度。
だって頭で分かってもこちらの世界で人間本番やってる私達は当事者なわけで
のほほんと 愛しい♪ とばかりは思えないじゃないですか(笑
どれだけ大変やと思てんねん、嫌なものは嫌なんだわ、と。
大変ではあるけれど、あの視点で常にものを見ることが出来れば人生少しは楽になるんじゃないか
と思っちゃうわけです。
しかしそうは問屋が卸さず、そんな経験はそうそうさせてもらえないわけで
あの一瞬の経験でしばらくは十分でしょ?それで頑張りなさい
ってことなんですよね。
はい、久々に現実離れした訳の分からない記事になって、読者の皆様はキツネにつままれたようになってらっしゃいますね?
でも続けますよ。
例えて言えばこれに似ている。
私たちがテレビでドラマを観る時、映画を観る時
主人公が痛い思いをしたり辛い思いをしたり死んでしまったり・・
主人公と一緒にそのお話の中に入り込んで同時に同じことを体験した気持ちになる。
そして同じように悲しくなったり怖くなったりする。
けれどもそれは架空の作り話で、本当のところは役者は怪我をしていないし傷ついてもいない、もちろん死んでもいない。
それが分かっているから、心のベースのところでは安心して悲しんだり喜んだりしますよね。
あれと少し似てる。
私たちがドラマの登場人物を眺めるように
あっち側の世界の存在達はこの世にいる私たちの経験を【 何があっても大丈夫だから 】をベースに微笑ましく見てる。
別の例えとしては、寝ている時に観る夢。
夢の中では大抵はそれを夢とは気づかず、本当の世界だと思って必死で考えたり行動しようとする。
でもそれはあっという間に過ぎて、目が覚めるとその 本当だと思っていた世界 は虚構であることが分かり
自分はこちらの現実世界に戻って来てる。
それと同じであの世から見ればこの世は仮の滞在場。
あれこれを経験するステージ。目的の経験をしたらステージから降りる。
いつかは去る虚構の世界。
それが終わればまた皆例外なく、元いたあの世に戻る。
だからこそ夢の中では本当はどんなことをしても大丈夫。
だからこそあの世視点では、こちらの世界のどんな経験も心の底から微笑ましく、愛しく思える。
あの感覚をもう一度体験したい
とよく思います。
特にいろいろしんどい時に(笑
Michail Chochlačev ( Михаил Хохлачев ) Alter Ego Convention (ca-2018)
って記事をUPした瞬間に来たメール。
こっちのことはあちらの世界に何でもツーカーのバレバレなのですよ(笑
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