私は宿命中殺持ちではないのですが、それに近い。
その中殺。能力や方向性、得意分野を表す十大主星は中殺されると元の意味だけでなく中殺されて変化した後の意味も付け加わるのですが、貫索星。
貫索星が中殺されると一部、こんな感じの性質が出てきます。
純粋なまでの一本気と、他人の言葉に惑わされやすい幼児性が混在するので、世の美しいものだけを見つけ出そうとして常に高尚な趣味の中に自分を求め、無欲な生活に生きようとするところがある。
私やん、これ。
と初めて見た時思いましたよ、ええ。
ただその時は自分に宿命中殺の気が入るとは知らず何故なのだろうかと不思議でした。もちろん今なら分かるのですけれどね。
『純粋なまでの一本気』 については、清濁併せ呑むというのができないのだよね。全然できない。ちょっとでも要らんものが混ざってたら要らんだろと。まあこの辺は同じく中殺気味で更に尖った調舒星の声が大きいのもあります。
『他人の言葉に惑わされやすい幼児性が混在する』というのも、他人の気がものすごく自分の中に入ってき過ぎるので、その瞬間それが自分の意見や感覚なのか他人のそれなのか俄かに判断つきにくいところがある。それが分かるのは完全に一人になって少し時間が経ってから。なので並列関係で大勢の中に混ざるのがものすごく苦手なのです。
『世の美しいものだけを見つけ出そうとして常に高尚な趣味の中に自分を求め』に関しては、自分をその中に求めるというよりも、音楽でも絵画でも美しいもの、それはそれに携わった人たちが『これこそ最高に人間臭くて最高に美しいよね』と思っている極みの結晶に浸って生きていきたいと常に思っています。まあ現実はそういうわけにもいかないので、ちょくちょくそういうものに触れることによって命を頂き、なんとか生きながらえている次第です。
『無欲な生活に生きようとする』
これはもう『生きようとする』というよりはそうなってますけど?なんですよね。煌びやかな生活とか全然要らないし、ブランドもののあれやこれやも皆目興味がありません。何なら外出のために着替えるたび本気で
同じ洋服を何セットか持っていてそれを着まわすスティーブ・ジョブズ方式じゃ駄目なんか?
と大真面目に思っていますし。
お金も自分に使うことがほぼないので全部子供に回っていますしね。
まあ最近結構なお値段の原典算命学大系をポンと購入しましたが、こんなの毎年買うようなものじゃありませんのでね。
とここまで書いて思うのは、これとある意味対極にあるのが中殺されていない石門星だよなあと。
石門星は極めて現実的で、目的達成には一人よりも皆の力を借りた方がいいと合理的に考えられます。そして仲間と徒党を組んで前進することで自分も皆も守りつつ大きな目的を達成するんだというのが第一義に来るので、ちょっと気に入らないもの(物&者)は要らないよねなんて絶対思わないのです。分かりやすく言えば、使えそうなものは全部使うぞと。切り捨てるなんて勿体ないやないかと。だからこそ現実に強い。清濁併せ呑む懐の広さが魅力で強さなのです。
集の中で自らの目的を達成する星なので、周りに意識や精神が攪拌されるような脆弱さもありません。というよりどれだけ周りにやいのやいの言われても自分を見失わない。ブレない。
(他の星との組み合わせにもよりますが基本はね、という話)。
『高尚な趣味に自分を』とか『無欲な生活』とかも、たとえそっち方向に興味が向かっていても、夢と霞を食べて満足♪ではなく、必ずそれを現実的な実のあるものに最終的には持って行ける逞しさもある。
私は石門星から最も遠いところにいると自負しているのですが(笑)だからこそ石門星人さんたちが眩しい。そして石門のある人が見る世界は、私と同じものを見ていても多分に景色が異なるのだろうなあ、私も一度は石門眼鏡で世界を見てみたいなあなんて思うのです。
本日もお読みいただきありがとうございました。
本日は双子たちが学校のお泊り合宿(というのかな?)に行っておりまして、わたくし自由時間がございます!というわけでカフェで神(Grigory Sokolov氏)によるチャイコフスキー、ピアノ協奏曲を聴きながら記事なんぞ書かせてもらっております。なんと有難く贅沢な。ぬほほ♪
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