今、準備の人生を生きているという確信があります。下見の人生と言ってもいい。もちろん今も本番なのだけど、でもこの先に続く “ 最終目的を達成する人生 ” に向けた準備の人生。
この人生で何故あの時ああだったのか、今どういう意味があってこういう生活をしているのか。何故あちこちの国を旅したい・見て周りたいのかとか、何故こうして3人も子供を育てているのかとか、何故ずっとクラシック音楽を聴き続けているのか・絵画を観続けているのかなど。最近全てが繋がりつつあるのです。
自分の中でゆっくりゆっくり、真実をそっと打ち明けてくれる花が咲き開きほころんでいくような感じ。そしてその花の成長する土壌を潤す栄養素は、静けさであり一人の時間。算命学。そして何よりも本物の絵画と音楽に触れること。
Magnolia Blossom (1863) By John la Farge
素晴らしい芸術作品や演奏に触れる時に受け取る情報というのは、私がこれまで何度か突然あの世に繋がった時に受け取った情報と似ています。情報自体もさることながら、自分の中にその情報が流れ込む流れ込み方、情報の種が自分の中でゆっくり芽を出し開いていく経緯が同質。
ただあの世に直接アクセスする( といっても自分でできるわけでなくあの世が勝手に私に繋がってくる )時の方が瞬時に強く濃く、膨大な情報の圧縮ファイルが与えられます。その圧縮ファイルの中身は一気に解凍されるわけではなく、また私の意志で解凍するわけでもなく、必要な時に必要な分だけ解凍され教えてもらえる。
絵画や音楽から流れ込んでくる情報というのはそこまで濃くも膨大でもない。もっと控え目な種がそっと穏やかに自分の内側で芽吹く感じ。心の中の世界が微風に戦(そよ)ぎ、本来知っていたのに知らないと思い込んでいたことを『 ああそうか、そうだ、そうだよね?やっぱりそうなんだ。』と思い出し、納得するといった方が正しいかな。
そういった芸術の担い手は、自分がそんな重大な情報を誰かに流しているなんて露ほども思わない。けれどもそれだけ濃くて深遠で大きな情報を伝えられているということは、その人にそれだけの経験と認識の蓄積があるということ。そしてそれらは決して今世だけで蓄積されたものではない。とんでもない。その人の魂が何度も何度もこの世界に転生し、傍から無茶苦茶に見えようが賞賛されようが、自分なりに真摯に生き、その時その時の小さな目的を達成していく。その無数の経験と知識を積み重ねてきたからこそできること。最終本番の人生を生きるためにものすごい準備をしてきたということ。
The Cellist, 1909 by Amedeo Modigliani
面白いのはそういった芸術の担い手は、自分がそんな重大な情報や経験を蓄積した存在だなんて思ってもいないし、当然誰かに流しているとも思っていない。演奏家であれば音に集中するだけ。でも全てを忘れて音に没頭すればするほどその人は向こう側の世界とこちら側の世界を繋ぐ確かな通路になり、その通路が拡大する。そしてその人があちら側の世界に蓄積している情報や経験、この世の神秘や心理みたいなものが勝手に流れ込んでくる。おそらくそんなことを知って『 みんなに伝えよう 』と意識すると反対にパイプは閉じてしまう。
ミヒャエル・エンデさんの父上もそれをご存知だったようです。面白いなあ。
芸術とは、これは父の口癖だったのですが、芸術とは彼岸にもなければ、此岸にもない。その中間にあるのです。中間に存在しているのです。それは人間が創造するものであり、人間が創造する世界なのです。まったく新しいものを表現して、現存の被造物の仲間になるのです。 『闇の考古学』
— ミヒャエル・エンデ (@Michael_Ende_jp) November 1, 2021
( 前半部分の話。後半部分は私の感覚とちょっと違う。)
今世でやろうと思って生まれて来たその目的はそれぞれに全く違う。『 最終目的の人生を実現するために今は下積みの人生 』というのは私の場合であって、ただこの世をちょっと楽しんでみよう♪というお試し人生みたいな人もいると思う。
けれどもいずれにせよ、生まれて来る前の向こうの世界で決めて来た目標・目的というのは、この世で持て囃される基準とは全く関係ないところで決まっている。価値基準が全然違う。なので人生で達成できれば素晴らしいとされる出世、名誉、収入、知名度云々・・・とは何の関係もなかったりする。
もちろんそれらを実現するのはダメではない、同時に成し遂げてもいい。でも本来の目的はそれらとは基本全くリンクしてないということ。なのでどれだけ地位・名誉・富・なんちゃらというこの世的に評価されるあれこれを得ても、生まれて来る前に設定した本来の目的を達成できなければ、『 人生そんなことにかまけてやるべきこと忘れちゃってたの?人生勿体なかったね・・』みたいになってしまう。私にとってそれは絶対に避けたいこと。
あら、長くなっちゃった。
あまりに漠然として何の話だよ??という感じかとは思います。
今の私には、濃い霧の向こうから巨大な絵が少しずつこちらに姿を現し、少しずつ全貌が見えつつある途中なのです。でも全体が大きすぎて、また全体が均等に少しずつ見えてきているので、どこからどう伝えればいいか分からないなあという感じ。全貌を纏めて伝えるところまでもいっていない。伝えなくてもいいかも知れないけれど、伝えたい気がするのでこうして書いています。
本を出しませんか?みたいな話もいくつかありますが、全然まだだな。もっと自分で納得するまで全貌を把握して、納得する纏め方をできてから。そしてやっぱりそこでも算命学はものすごく役に立っているのです。それまでまたちょっとずつこちらで書いて行こうと思います。
コメント
今回も読み応えありました。
ブログで少しずつ語ってくださることを、頭の中で組み立てながらアレコレ考えを巡らせています。
長くかかっても、ぜひ、本にして欲しいです。
佳代さんが鑑定してあげたいと望む方たちにも届きやすくなるのではないでしょうか。
私はラスコーだのの古から
人が営々と続けてきたイメージを描くということ、そのために時代に応じて技術をいかに洗練させてきたか、その積み重ねに興味があります。実に現世的。
その一方で、うまけりゃ芸術になるわけではないとも当然わかっていて、
(プリミティブだからって芸術性に劣るとは限りませんもんね)
芸術たらしめているのは何なのかについても想いを巡らせております。
佳代さんやエンデ父上のお話も取り込みつつ、またじっくり絵画に向き合っていきます。
音楽には全くの門外漢(#^.^#)
先日テレビでビル・エバンスを取り上げているのを見ていたら、
実はクラシックの基礎を持っていて、
「美と本質だけでいい、あとは捨てろ」
というようなことを言っていたことを知りました。
なんとなく佳代さんを思い出しました。
こんにちは。
>私はラスコーだのの古から
の部分がちょっと分かりませんでした。ラスコー洞窟の壁画の話でしょうか?
壁画って無茶苦茶センスいいの沢山ありますよね!その当時画材なんて全然なかったろうに、それでもこんな抜群のセンスで生き生き描けるなんてやっぱり時代は変われどバリバリ調舒星発揮して生きてる人はいたんだなあ!なんて勝手に想像しています(笑
>「美と本質だけでいい、あとは捨てろ」
良い言葉ですね。ついついあれもこれもくっつけたくなるのが凡人・・そういう時期も必要なのでしょうが、付けるだけ付けたらあとはザクザク手放した方がいいでねす。