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「資本論」の経済学者カール・マルクスの寄生虫っぷりとその娘の散々な人生(3)親は子に対していとも容易く社会公認の泥棒になりうる

 

こういう図は実はどんな家系にも必ずどこかに存在する珍しくない形だと思う。

だから別にいいじゃん?そんなもんでしょ?ではなく、だから無念が積もる。念は見えないだけで確実に存在するものだから。深い思いほど分かって欲しいのは生きている人も死んでいる人も同じなのです。

その無念は必ず誰かが見つけ、認め、受け止め、昇華しなければ必ず手を変え品を変え継承され、雪ダルマ式に世代を経るごとに膨らんでいく。

 

 

非常に胸糞の悪い話ですが、これだけの厚顔無恥な貪り食い尽くしがあったからこそ彼の『資本論』は日の目を見たともいえるのです。早々に命を落とした子たちも含め、周りは散々な人生を送り死屍累々。でもその運の総合マイナスのおかげで、マルクスの運がプラスに跳ね上がったと(たとえ死後であっても)

 

仮にそれがなく

自活力もないし結婚しても家族を不幸にするだけだしな・・・

とまともな思考が働く殊勝な人であれば、同じ経済論云々言っていても無名の人で終わっていたでしょう。

これが書きたかったことの1つ。

 

もう1つは、私は自死した彼女を責めないということ。

 

ここまでやれることを最大限やって、それでも本当の愛を誰からも受け取ることができず、愛情の栄養失調で命を継続させられなくなる。そんな時自死に至ってしまう人を私は責めません。絶対に責めないよ。

だっていい加減に人生を投げ出したわけではなかったのでしょう?

愛され方が分からなかった。何故なら本当に大事にされたことがなかったのだもの。それを彼女一人の責任にして責めるのはあまりに酷だし馬鹿げている。

 

 

親から愛されるどころか、親に愛を一方的に捧げるしかない環境で育つ人間というのは、水を与えられない環境に植えられた種のようなもの。自力で根を伸ばし、何とか地中の殆どない水分を必死に集めたところを、そばにいる親に掠め取られる。自分には何も残らない。

なのに

もう〇〇日も経つのにまだ花が咲かないの?

まだそんなに小さいの?普通はもっと大きくなるけど?

もう枯れるの?甘えてんじゃない?

などと心ない言葉をかけられる。

 

親は親で

子から愛もエネルギーも時間も能力も運も献上されて当たり前

だって産んでやったのだから

などと平気で言う。

 

こういった “親が子に甘え倒す” 図は古今東西無限に存在する。でも体よく美談にされて黒い面はなかったことにされる。

なので親なるものは子に対していとも容易く社会公認の泥棒になれる

 

 

人間は弱い。

水は低きに流れ、人は易きに流れる。

無条件の愛を限界まで与えようとしてくれる弱い存在である子どもに対し、親という立場の人間が如何に理性を以て甘えず、自分に都合のいいように利用せず、搾取せず、人としての尊重を忘れず、自分も子も成長する方向で日々を生きられるのか。

そこが実はこの世で生きる大きな課題の1つでもあるのです。

 

人が集団で生きる時、必ず助け・助けられ、迷惑をかけ・かけられ・・という現象は起きる。

介護や経済的負担だってそうだ。

でもその中で支える側が常に

自分の日々の苦労は無駄ではなかった

自分の尽力は尽くした相手によってその貢献を認められ「あなたのおかげで!」と心から感謝してくれた

自分の寄与貢献は確かに縁の下の力持ちとしてなくてはならないものであった

そして自らの存在意義もそれによって確信を持てた

と思えればあと腐れはない。

思い残しの念にならない。

因縁として次世代にへばりつかない。

助けられる側は助けてくれる側にそう思わせるのが最低限の礼儀であり、責任なのです。

 

「いつもありがとうございます」

 

ご先祖様ありがとーが流行っているが、そんな遠い人よりもまずは身近な人に目を向けること。気を向け、気を配り、感謝し、丁寧に関係をケアしていくこと。

身近な人ほど「これくらいいいじゃん」とぞんざいになり、甘えが出て甚大な被害が出るまで気づかないのですよね。

 

そんなことを再確認した記事でした。

 

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本日もお読みいただきありがとうございました。

 

この時代の台所ってこんな感じ。お料理一つとっても大仕事ですよね。

James Whistler, The Kitchen

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