今日は女性を見た。
いや、女性ではなかった。
彼女は今はもう存在しない台所の廃墟に丸まって、赤ん坊に空のスプーンを与えている、人間の形をした影だった。
何度も何度も。「食べなさい」彼女はまるで彼を救うために慈悲を偽ることができるかのようにささやいた。
そして子供は従った。
飢えは母親を神にする。たとえ嘘しか与えられないとしても。
これは飢饉ではない。これは神学だ。
ここでは信仰は、炎の上で焼かれる肉のように悲鳴を上げるまでゆっくりと試される。
ガザでは子どもたちは成長できない。少ししか与えられないからだ。
空爆の合間に生まれ、制裁下で育ち、沈黙に学ぶ。
ここでは死はもはや悲劇ではない。
それは統計上の数字。夜盗のように突然現れるものでもない。つまり郵便配達員のように定期的に、予想通りプロフェッショナルにやって来る。
トラックが送られてくる。
足りない。全く足りない。
一万人が一台のトラックを追いかける。まるで皇帝の食卓の下の犬のように。
そして世界は言う「なぜ彼らは動物のように争うのか?」
飢えているから。忘れ去られているから。これが当初の計画だったから。
そう、飢餓は計画通り。
殺すだけではなく破壊する。人の皮を剥ぎ、衝動だけが残るまで。
いつか彼らが互いを食い合う時、世界はこう言うだろう。
「ほら、言ったでしょう?(私たちは正しかったわ!)」
しかし私は聞きたい。
子供が暗闇の中で飢える一方で男たちは国境をめぐって口論し、聖職者たちは忍耐を説き、人権団体は新たなシンポジウムを開催している。
子供の命の価値って何だ?
あなたの快適さの方が重要なのか?
公正な世界に対するあなたの信念よりも軽いのか?
もしあなた方が沈黙するせいで一人の子供が死ななければならないのなら、もしあなた方の国が外交的優位を保つために一人の子供が瓦礫の下に埋もれなければならないのなら、私はこう言おう。
そんな進歩は巻き戻せ。
文明を取り戻してくれ。
平和を取り戻せ。
要らない。
「これは戦争だ」と言うでしょう。いや、戦争は終わる。でもこれは永遠に続くのです。
これは希望の組織的な処刑だ。
そして崩れ落ちたモスクと血まみれのパンの列の下、埃の中のどこかで神は見守っている。
しかし彼が泣いているのか、それとも自身の恥で息が詰まっているのかは分からない。(ソース)
GHF(ガザ人道財団、Gaza Humanitarian Foundation)はガザに食料を供給したという。900万食だと自慢する。一人当たり3食だと。
それは正しく寛大で、救いの手のように聞こえる。
でもそうではない。
真実は?
私の知り合いでたった一口すらも入手できた者はいない。
私も家族も、何週間も食器棚が空っぽになっている近所の人も。周りに聞いても答えは同じだ。
台所は静まり返り、路上には飢えが広がっている。少なくともここにいる人々の8割は何も見ていない。
しかし数字は印刷され、プレスリリースが送られ、寄付者は満足し、世界は「900万食!」と聞き先へ進む。
それが嘘の役割だ。
飢えた者を騙すのではなく、遠く離れた者を慰める。
トラックは確かに少しずつ到着している。けれども配給所で働く男性は、4日間でたった7台のトラックしか到着しなかったと話した。
GHFは1日30万食を配達していると主張している。この数字と実際の差は間違いではなく、政策の問題だ。
これは援助ではない。ただの演劇だ。
そしてこの芝居の目的は単純明快。
上手く機能しているという幻想を作り出すこと。
ガザは効率的に、計画的に、そして今や目に見えない形で飢餓に陥っているにもかかわらず、世界には『食料が供給されている』と信じ込ませるのだ。
かつて嘘は恥じるべきものだった。
今では嘘にはロゴが印刷され、広報担当者の署名が入る。
そして苦しみがスプレッドシートの下に埋もれ、飢餓が統計に包まれる時、嘘は銃弾よりも強力になる。
なぜならそれは肉体だけでなく目撃者さえも殺すからだ。(ソース)
本日もお読みいただきありがとうございました。
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