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ガザからのレポート

 

なんか今年の夏至を既に通過したと見かけまして

 

戦慄しております!

 

やっと日が長くなってきたなぁ~♪

と漸く生き返った気分になってきたところなのに、もうこれから少しずつ日が短くなっていくなんて!!何たる悲劇(泣)

 

気分を上げるために最近お花屋さんで撮った写真でもどうぞ。

 

と気分を上げたいところですが世界情勢があまりにも酷い。

 

今日はガザの医師 Dr. Ezzideen 氏のツイートをご紹介したい。英語で綴られているけれどXには翻訳機能が付いているので、英語が苦手な人も日本語で読むことができます。

 

恐らくガザの状況は新聞などで見聞きしていても、実際は日本という平和で豊かな国に生まれ育った私たちの想像の限界を遥かに超えた状態なのだと思う。それがずっと継続している。

そんな状況でも激情に呑まれることなく(そんな時期はとっくに過ぎたということなのであろう)、高い知性と柔らかく、あまりに美しく詩的な、誰にも分かりやすい表現で綴られる、とてつもない文章力に魅了されてしまって、かなり遡って読み込んでしまった。

 

長いけれどいくつか抜粋します。

 

今日は海のそばに座っていた。

突風が吹き荒れ、水面は灰色に染まっていた。

静寂を求めて来たのに、静寂は既に塵のように全てを覆い尽くしていた。

 

二人の少女が通り過ぎた。裸足で。ドレスの端が破れていた。

誰も彼女たちをじっと見つめなかった。見る必要もなかった。

彼女たちは今や砕けた石のように、錆びた金属のように、風景の一部となっていた。

 

2人とも小さな使い古したハンドバッグを肩にかけていた。

もっと良い時代ならそれは喜びであり、イード(イスラム教徒の祝祭)の贈り物、そして子供が大切に見守られているという証だっただろう。

 

しかしここではそれは習慣の残骸に過ぎず、もはや存在しない何かの名残だった。

それがガザ。

爆撃でも瓦礫でもなく、何も詰めるもののない空っぽのハンドバッグを持って裸足で歩く少女だ。

 

イードがやってきた。期待通りだから笑顔になる。

「これもまた過ぎ去るだろう」とでも言うように「イード・ムバラク」と唱える。

祝う必要はない。あるのはただ継続だけ。

空気には金属臭が漂う。昨日から爆撃は止まない。家族は音もなく死んでいく。名前は消え家々は崩壊する。

 

私たちはコンクリートを手で掘り進む。体が温まるのはほんの一瞬だけだ。

病院は死者で溢れている。

生きている者たちは待つように言われている。

 

パンは貴重。水は苦い。

救援は遅れ、しかも少なすぎる。

この場所には涙は残されておらず、計算だけが残っている。いつ逃げるべきか。どこに隠れるべきか。再び襲われたら誰を運ぶべきか。

 

海外から彼らは声をあげる。スーツを着て革張りの椅子に座り、私たちを犠牲者と呼ぶ。私たちは勇敢だと。私たちの死には意味があると言う。

そうではない。

ぼろをまとった少女は犠牲者ではない。彼女は子供なのだ。彼女は空腹で歩いている。

 

彼女の苦しみを美化する言葉は呪われている。

彼女の代わりに書かれた文も呪われている。

私たちはシンボルではない。比喩でもない。

 

私たちは強いわけではない。選択の余地がなかったから耐えてきただけだ。

私たちは希望を持っているのではなく、肉体が命にしがみついているから生きているのです。

そしてしがみつくことができなくなった時、それは静かに落ちていく。

 

この街のどこかで母親がお茶の無いお湯を沸かしている。

子供が待っている。飛行機が通り過ぎる。

私たちはもう見上げない。

私は海のそばに座った。言葉はもうない。ソース

 

次のページに続く。

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