算命学を勉強していていきなり 『 うわわっ 』 と気付いたことがあるので書いてみます。
算命学は古代中国の暦、暦学思想をベースにしています。
昔々まだカレンダーも時計もない頃、人々は何とか自然の流れを把握して農耕を盛んにし、食い繋いで行かなければならなかった。季節を正確に把握できるのとできないのとでは、収穫に大変な差ができ、それは民族存亡に係わる一大事だったわけです。朝が来て夜が来て、風の流れを感じて天体の動きを観察し・・・当時の賢い人が気付くのです。
なぁ、あのあそこに見える星 ( =木星 )。
ずっと観察してたんやけどな、あれどうも大体12年経つと同じ場所に戻ってくるで?
これを確かめるだけでも大変だったでしょう。
だって肉眼で観察するしかなかった時代、48年経っても4回分しか観察結果を得られない。
それを何世代にも渡って記録し、観察し、継承する中で暦というものが少しずつ出来上がっていったわけです。
そこから時間の流れを把握する術を編み出した。このスタートが今からおよそ 4500年前。
西洋のカレンダーは時間の流れだけに着目した 時間暦 なのですが
東洋の暦はこの世界を 空間 と 時間 という2視点から把握した 時空間暦。
算命学はこの時空間暦をベースにしています。
その後時代が流れて、中国最古の王朝 『 夏 ( 夏后 )』 『 殷 』 あたりに
五行説 と 陰陽説 が別々に発生し、後にそれらが合体して 陰陽五行説 となるわけです。
殷の時代の陰陽五行学説が初期の算命学。
何だか難しそうですし実際難しいのですが、要は 昔の賢人たちは自然の移り変わりを丁寧に観察し学ぶことでこの世界を何とか把握しようとした。そして この社会および人間もこの世界に存在する以上、世界を理解できる技術で同じように理解できる と考えたわけです。
時代とともにその精度を高めていった陰陽五行論からくる算命学の前身は、そのあまりの正確さから口承学問となって行きます。戦国時代に軍略としても使われていたため、そんな高度な技術が他国に渡ってしまえばこちらの手の内が分かるどころか、あれもこれも大事な部分が筒抜けになってしまうからです。
その時代背景を想像した時。
先代からこの学問を受け継ぎ、更に磨きをかけ深め、次に伝承していくという役割を負うのは、どう考えても 国中から選りすぐられた天才エリートのトップ中のトップ だったでしょう。
また天変地異による食料供給の不安定から、常に食うか食われるかの血で血を洗う闘いの時代。
そんな中で長く恐怖政治を敷いてきた、広大な国を治める強大な権力の前で。
選りすぐりのエリートも、一瞬のミスで首が飛ぶほど厳しいギリギリの環境で 命がけで 陰陽五行論をベースにした軍略に携わって来たはずなのです。
これは~何となくこんな感じでぇ~エヘヘェ
みたいな 思考、解釈の緩さが入る隙は全く無かったはず。いつ何の凡ミスで命を取られるか分からないという厳し過ぎる極限状態の中で、エリート中のエリートがそれこそ心血注いで磨き、高め、完成させていった学問が算命学なわけです。
( 注:完全に今現在の形になったのは随分後ですが )
最高じゃないですか。
古代人が空を観察し始めた頃から考えれば約4500年もの間。暦ができ陰陽五行説の大枠ができた殷の時代が、紀元前17世紀頃。20年とか500年みたいな想像がつく期間ではなく、最低でも3500年という歴史の中で磨かれ守られ続けてきた東洋最高峰の知恵の結晶が、何の因果か私の目の前に開かれてそれを学んでもいいですよと許可されているわけです。
~ ここまでが前置きなのですが ~ ( 長っw )
勉強していていきなり分かったこと。
算命学が人を選んでいる。
勉強している本人は自分がこれをやろうと決めてやっている、と思っている。
けれども、その本人の意志もひっくるめた上で算命学がそれを学ぶ人を選んでいる。
もちろん誰でも市販の書籍で算命学を齧ってみるくらいはできます。誰の前にもその道は開かれている時代です。
私が言っているのは
その成り立ち、時代背景や当時の人々の人生観なども含めて理解しようとし、本当の意味で 隅から隅まで算命学をマスターして他人様のお役に立てるよう精進し、できることなら更に一歩深めるという歴史の流れに貢献できれば・・・
と、そこまで考えられる学習者や鑑定師、研究者のこと。
これだけ深い学問を完成させた歴代の東洋最高峰の知性、およびその知の結晶である算命学という学問でありそれに携わったエリートたちには
- その後人間の歴史が辿るであろう軌跡
- その中で人々がどう変化し、何を考え、何を必要とし、何を悪用し
- その流れの中で算命学がどう扱われるであろうか
そんなこととっくの昔にお見通しだったはずなのです。
なので学問自体に凡人には気付かないようなプログラミングが施されていて、生半可な気合いだけではマスターできないようになっているし続けられないようになっている。勉強していてそれをつくづく感じます。
何も私が自分で
アテクシは選ばれた民なのでござーますの~ ゥオ~ッホッホ ( 頭が高~い!
と言いたいわけではもちろんなく。
今現在はこの学問に没頭しこれを隅々まで自分のものにできた!と納得できるまでは死ねないな、と思っていますが
もしもある時
あれ?何か違うな、これじゃない。やめよう。
となる時が来たとしたら。
それは私が自分で決めたように見えて( 感じて )実は私が算命学に見放された時なのだろう
そんなことにパッと気付いた、というお話でした。
Борис Корнеев (Boris Korneev) 算命学を勉強中の私 (←さり気なく美化したな)
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