いつものことなのですが、我が家は(我が夫婦は)天中殺で物が壊れる。
現在わたくしの月運天中殺なのですが、冷蔵庫が壊れましてね。いつものことですね。
6,7月が月運天中殺のわたくし、6月初めに日本からドイツに戻って参りましたら既にオーブンが壊れておりまして。
今回はそれか~
と思っていたのですが、ここにきて冷蔵庫。
そして夫の月運天中殺は12、1月で、そこでもまた確実に何か壊れるのでしょう。
こういうの選ぶの、とても苦手。
これもまた毎度言っているのですが、そうやって出費がかさんで全然お金が溜まらないながらも、厄がモノに出るのであれば全然OK。家族の心身に関する健康に害がなければそれで良いのです(泣笑)
さて。
人間にとって誰かからの愛って「ここ/この世にいてもいいですよ」という存在価値・存在許可として受け取られがちだなと思う。
算命学では人間を有形と無形の面で分けて考えます。
有形の面について考えてみると。
肉体を維持していくためにはちゃんとビタミン、タンパク質、カルシウム云々の栄養素とカロリーを摂って、適度に寝て運動して・・・が必要なのはみんな分かる。何故ならこっちは有形の目で見て確かめられる世界なので、有形物質世界における五感による知覚可能情報に引きずられがちな人間という生き物は、そこはすんなり納得する。
~♪
じゃあ人間の無形世界の面は?精神の部分は?に関しては、何となく
有形世界が満たされればそっちは勝手に何とかなるんでしょ?
くらいのぼわ~~~~んと極めてあやふやな認識で生きています。昔の私がそうでした。
満?
でも半世紀生きて色々なことがクリアに分かってくるようになって言えるのは、その2つは混ぜちゃいけない。テキトーに混ぜて誤魔化せない2つの別々の世界。互いに影響を与え合うことはあっても、そっちはそっち、こっちはこっち、なのです。
じゃあ精神が元気に存在し続けられるのに必要な、肉体にとっての卵白質やカロリーに該当するものって何よ?
という問いに対しては「愛」としか言いようがない。
人は本来親に愛されて心身ともに育まれるもの。
でも愛されなければ?
無償の愛を貰うことができなければ?
飢・・
肉体が栄養を摂取できなければ病気になり、やがて朽ちていくように、精神も支えがなく枯れてしまう。
なので愛情不足で育った人は、無意識に愛を得ようと猛烈に勉強を頑張ったり、美しくなろうとしたり、沢山お金を稼ごうとしたり・・・
それらは適度であれば「ハングリー精神に繋がって良かったね」ということになる。
ウォー!
けれども命を懸けてまで危険なことを敢えてして承認欲求を満たそうとするSNS利用者、既に十分美しいのに美容整形が止まらない人、余りあるほどお金があるのにまだまだ!と血眼になる人、十分異性にモテるのにもっともっと!と欲する人。
愛されなければ生きていけない
愛されなければここに居てはいけない、存在してはいけない
無償の愛をくれるはずの親にすら愛されなかった
自分は愛される価値がないのだきっと
愛されるためには、自分は自分のままでは全然ダメだ
愛されるためにはもっと皆を感嘆させ
自らの美貌で感化し
たくさんのお金を稼いで尊敬され
高い地位を築いて力をつけて
愛される価値を・存在価値を身につけなければ!
もっともっと!!
必勝!!
つらいよね。
これ終わりがないんだわ、この道に踏み込むと。
「この勉強面白くて堪らん、うへへ♪」とのめり込んだ末に社会で評価されるのと
「これで評価されなければ自分はこの世に存在してはいけない。それなしでは存在すらする価値がない(真顔)」と思ってシャカリキに努力した末に結果を出すのとでは、外から見て同じに見えても中身は天と地ほど異なる。
スタートの自分のあり方が180度真反対だからですよ。
いずれにせよ、いつか「あれ?違うな、これ。」と気付くまでひたすら泥沼に突っ込んでいく。
心身を豪快に削りながら。
これは
(常識の範囲内で)まあ普通に親に大事にされて育ちましたけど?
レベル以上の愛を受けて成長してきた人には何のことだかさっぱり分からない話です。
だってそういう人は
自分が存在するためには〇〇であらねばならない!
なんて強迫観念がないから。そんなもの持ったことがないから。
そんなものなくてもここにいていいに決まってるじゃない!
が大前提であり、そもそも「この世界に存在して良いという存在許可」について考えることすらない。
これぞ The 健全!
理想の状態 というよりも自然。
条件が付いている段階で、それは愛じゃないんだよ。
それはもう等価交換とかビジネスの領域で、愛とは無縁。「愛」ごっこ。真似事。
だから
〇〇をしたから、するから、持ってるから愛される
という状態では、いつまでたっても満たされない。
はい、長くなってしまったので結論です。
今ここで生きているのでしょう?
てことは天から
あなたはここで生きてていいですよ!
の存在許可を得ているということ。
〇〇だから~という『愛されるための条件』は要らない。
物理的に肉体を維持するためのアレコレは必要。
精神面の健康を維持するための愛も必要。
これらは生きていく上での両輪。
たとえ親云々からの愛が無かったり乏しかったりしても、天から愛されてるから存在できてる。
それで十分ではないですか。
じゃあ亡くなった人は天から愛されてないのかい?存在意義がなくなったってことかね?の話ですが、そういう人たちは
もう今世でやるべき課題はコンプリートしましたね!この世卒業していいですよ、合格!
なのです。いずれにせよ愛されているし合格よ。
だから堂々と生きていればいいのです。
さぁ、ふてぶてしく生きよう。
本日もお読みいただきありがとうございました。
なんてことを遠野なぎこさんの続報がない中考えていました。
彼女は途中で生きるのをやめたのではなく、最後まで全力出し切って生き切られたのではないかなと思います。
Requiem 2018 by Ignacio Trelis (Spanish, b.1960)
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