日本人の皆様には源氏物語の末摘花 ( すえつむはな ) でお馴染みの生霊 ( いきりょう )
ちゃうちゃうー!
それ六条御息所 ( ろくじょうのみやすんどころ ) やー!
って突っ込むところですよw
これは 『 悔い改めるマグダラのマリア 』 by Georges de La Tour というフランスの絵画なんですが、無茶苦茶怖くないですか?
日本の幽玄にぴったりの世界観だわ、と思ってよく観ています。
六条御息所はいい女設定ですが、中身のイメージはこんなだったのでは。
光源氏が大好きなのに彼のナンバーワンとして扱って貰えず、源氏の正妻である葵の上を妬んで恨んで生霊となって殺し、紫の上とか女三宮にもとり憑いたあの人です。
生霊ってあるよね。
というかあります。
これ私知ってるから書いてるのですが、その黒いお話は明日書きましょう。
で、これってそもそも “ 念 ” でしょ?
誰かに対する強い思い。
誰かに対する
あいつ羨ましい、妬ましい、ムカつく、不幸になってしまえ
という強い思いが作用するならば、その反対である
あの人が今元気に幸せに生きていればいいなあ
というただただ純粋に相手の幸せを願う “ 念 ” も相手に届くのではないか?と思うのです。
誰にでもふと
あの人元気で幸せでいるといいなあ
と思う瞬間や人がいると思います。
私には結構たくさんいます。
度々脳裏に現れて、連絡はわざわざ取らないけどどうしてるかな~?と。
その時にやっぱり満足して生きていて欲しい
もしくは亡くなってしまった人もあっちの世界で幸せであって欲しいなとよく思うのですが
それって思われる人にどう作用するんだろう?と。
マイナスの “ 念 ” が相手にマイナスの作用を及ぼすのであれば
幸福を願う “ 念 ” は相手に少しでも元気を与えるものであればいいのにな、と思います。
これは言葉の上での便宜上の区別なだけで、以下の 『 徳を積む 』 の話にも繋がる・・・
というよりは実は同じ話なのかも?と考えています。
もしかすると幸せを願われた方が、願われた分だけ徳を積むのではないかな。
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