誰でも生まれる前に “ 人生で咲かせることができるハイライトの種 ” をいくつか撒いて来ていると思う。
それがない人はない。
分かりやすい例の一つが恋愛じゃないだろうか。
この時期にこの魂とこういう形で出会って、こういう恋愛をしよう。
という取り決め。
種を人生に仕込んできたからといって、勝手に必ずその花が咲くわけじゃない。
その種を当初の予定通りに芽吹かせて花開かせることが出来るかどうかは、本人たちの生き方にかかってる。
生き方というよりもどこまで自分が濁らないか。
自分の感覚に嘘をつかないか。
自分の魂は答えを知ってる。
その種を咲かせるきっかけは、たとえ周りの誰にも分からなくても自分には分かる合図。
自分にしか分からない「 これだ 」「 この人だ 」の合図。
魂と外界を遮る分厚い壁を自らせっせと塗り固めていないか。
合図を素直にキャッチできて本当に予定通り花開いた時、そこには互いを隅々まで理解し合い
どんな瞬間もいちいち言葉に直すまでもなくまるで双子のように通じ合い
大切に思い合い、相手に真直ぐ全力で向き合える奇跡のような経験が出来る。
若い頃は誰でもそんな経験をしているものだとばかり思っていた。
でも今この年齢になって分かるのは、恋愛というもの自体は殆どの人が経験するにもかかわらず
本当の意味でそんな経験が出来る人は実はそう多くないということ。
だからこそラブロマンスの物語が多くの人に好まれ、皆その瞬間を夢見る。
そして人生においてその花を開花させられれば、たとえ人生それ以外全てがどん底のぼろぼろであったとしても
その瞬間を体験するためだけに生まれてくる価値は絶対にあるほどそれはとても尊くて、命が煌めくかけがえのない瞬間であること。
だからこそそれは人生のハイライト。
むしろそのハイライトを際立たせ、より深く堪能するためにこそ、それ以外の部分でぼろぼろになる経験があるのかも知れないとすら思う。
きっとそんなハイライトの種を、誰でも人生にいくつか撒いて生まれてきている。
それは別に恋愛に限らず、師弟関係であったり、仕事の成功・名声であったり、素晴らしい親子関係であったり、内容は人によって様々で
今回の人生は子どもとの関係と仕事の成功で大輪の花を咲かせるよう種を撒くから
恋愛・結婚あたりはまぁぼちぼちでいいわ
と生まれて来る人だってきっといる。
健康も富も、仕事も名声も、恋愛も結婚も親子関係も親族関係も、友人知人関係も何もかも全て100%で大輪の花を咲かせるには
人間は小さすぎるしエネルギーも時間も限られ過ぎている。
どれかを取ってどれかは捨てる、またはほどほどに。
いや、取捨選択せず全てをほどほどのレベルに、という人もいるかも知れない。
そしてAという花を咲かせられたからこそ次のBという花を咲かせることができ、Bが大輪の花をつけたからこそCが咲くきっかけになる
といった流れはあると思う。
種を人生に仕込んできたからといって、勝手に必ずその花が咲くわけじゃない。
その種を当初の予定通りに芽吹かせて花開かせることが出来るかどうかは、本人たちの生き方にかかってる。
生き方というよりもどこまで自分が濁らないか。
自分の感覚に嘘をつかないか。
周りに翻弄されないか。
誰かに自分の人生を乗っ取られてはいないか。
そのあたりがズレると、当初予定していた人物に巡り合わずそれとは違う人と恋愛関係や師弟関係などになったり
違う仕事に就いてしまったり、違う場所に住むことになったり
少しずつ人生全体がズレて行ってしまうこともある。
花が咲きそうで咲かなかったり、似ているけれど違う花を咲かせてしまったりで終わってしまうことだってある。
それでも。
たとえ不発に終わって、人生ぼろぼろの踏んだり蹴ったりで終わる可能性があったとしても
それでも起こり得る開花の可能性、それを経験できるかも知れないそのチャンスに賭けて人は生まれてくる。
それだけの価値のある、その人にとって “ 生きる ” をこれ以上なく強く経験できる、煌めくハイライトだから。
Blossoming Almond Branch in a Glass with a Book, 1888, Vincent van Gogh
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