そんな風に見えない。
でもこの世の中には修行僧とか修験者である人がいる。
昨日観に行って参りました、映画『マイケル』。
先日ドレスデンでHadelich氏を聴いた時も思ったものです。

この人の人生は修行僧・修験者のそれそのものだと。
大きなタレントを持って生まれてきて、その世界で自分の道をひたすら極め続ける。自分の能力を最大限生かし、ただ一つのことにフォーカスして限界値を少しずつ上げていくことで、同時にこの世界の枠をも少しずつ広げていく。

そこにはもっと有名になれたらとか、もっとお金持ちになれたら、もっと快楽に生きたい…といった世俗的で謂わばショボいレベルの話はない。視界に入っていない。
修行には千日回峰行(せんにちかいほうぎょう)のような、ひたすら山を歩き祈り、断食したり、滝に打たれたり…といった我々一般人が想像する分かりやすいものもあります。が、Hadelichさんもマイケルも『山の行』ではなくその人生が『里の行』。
そして巷の世俗社会において行を積む『里の行』の中でも、MJさんのように大きなお金が動く『行』は最高ランクの難易度になります。何故ならお金は誘惑への近道であり、しかもそこに念が乗るから。とてつもない大きな念・因縁を引き寄せる磁石になり、否が応でもそれが自分を通り抜けていく。意図せずして社会のエネルギー流動の要となる。だから苦しいし難しい。


ひたすら善きことを思い、持てる能力の全てを出して、世界に貢献することに専念しても、魑魅魍魎が大量に押し寄せる。でもそれだけの引力魅力、才能があるからこそ世界を動かせる。
そんな魑魅魍魎の大挙する伏魔殿のような芸能の世界で生きるには、彼は心が綺麗すぎた。でもその心の綺麗さも相俟ってあの引力とエネルギーが…というスーパー二律背反。
なんと難易度の高い里の行かと思いながら、映画を観ていました。
あといつも思うのは、これくらいの修験者レベルになると、性別の境目が消えているような印象を受けます。Hadelichさんの時もそうだった。女性でも男性でもないような不思議な感じ。そんな区別のない世界から来た存在なのでしょうね。
本日もお読みいただきありがとうございました。

彼が子どもの頃から父親に厳しくショービジネスで働くよう躾けられていたというのは有名な話。
この映画の最初の方で、小さなマイケルが父親に革のベルトで激しくぶたれるシーンがあり、わたくしそれだけで結構なダメージを受けてしまいましてね
それでも母親は彼の良き理解者であり、彼の心をちゃんとよく見ているという風に描かれていて『お母さんは味方で良かったな』と思っていました。
が、帰ってきてから調べてみると彼女もインタビューで
あれが虐待だなんだ言ってるけど、あれは正しかったわ。躾けよ。教育よ。後悔は一切ない。それにあの時代はあれが普通だった。それに比べて今時の子たちは…

という華麗なる典型的毒親仕草を恥ずかしげもなく披露していて、嗚呼となりました。
映画で、父親は実にギラギラ強欲で怖い感じに描かれていて非常に良かったです。子供たちを金蔓に、子供に寄生して遊んで暮らす気満々なのをむしろ自慢にする姿が素晴らしく描かれていました。臭ってきそうなギトギトした顔もちゃんと怖かったしね(笑)
人というのは、上の立場に立った時下の立場の人に対して最もその人の “人となり、本性” が出るものです。
それが最も出るのが家庭の場。
親になった時、果たして子供にどう接するのか。
産んでやったのだから、親なのだから、子供の人生は我が手中にあり!
子供の意思だ心だぁ?生意気な。要らんいらんそんなもん。無視ムシ。
我が輩の人生の “敗者復活” アイテムとして大いに使い倒してヨシ!

という思い上がった勘違いを潔く捨て去ることができないと、“この世に何度でも舞い戻って来なくちゃいけない刑” という、いつまでたっても再履修コースのスパイラルから抜け出せない。
だからこそ家庭はこの世における一大修業の場なのですよ。
殊勝なことを言っている風を装い、その実ただただ子供に無理難題という我が儘をぶちまけ続け、甘え寄生し、心身ともに食い潰しても悪びれることなく、自分を正当化することしか考えられない弱い人間が、私はどうしても受け付けられない。
もし甲斐性のない自分の弱さをさらけ出し、子供に『これこれこういう状況なので、ホント申しわけないけど助けられない。むしろ助けてもらえない?』と言える強さを持てれば、そこに愛があるので何も禍根は残らない。因縁が発生しないので負のスパイラルにならない。

人間って、そこを天に見られているよ。
私の今世のテーマがまさにそういった『親の “子に対する甘えの正当化” という腐敗した連鎖』をぶった切り終わらせるということなので、ついそういう視点でも見てしまいましたね。
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コメント
コメント一覧 (1件)
佳代さん
こんばんは。
私もちょうど映画を見ました。鑑賞後、色々考えることがありました。
佳代さんも鑑賞済みだろうか、ちょっと感想拝読したいなと思っていた矢先、奇しくもマイケルの命日に記事をアップされておりましたので嬉しく思い、浮かれたままこのメッセージを打っております。
映画を観て思ったもののうちの一つにマイケルの人生とは、がありました。それを「里の行」とおっしゃっていてなるほどな、と思いました。世界の枠を広げることのなんと大変なことか、と。
鑑賞後、彼の最期は大衆の欲望の餌食になって命を落とした、いわば殺されたと思っていたのでそういう解釈に出会えて良かったと思いました。修行を自分で選んだのならば仕方ない。やりたいことを、やらねばならないことをやったなら…と。険しすぎる道は時として命を落とすものだし…と。
また、映画を見てからさらっと調べた中で、ぜひ佳代さんの意見を聞いてみたいと思ったことがあるので書かせてください。
1つめはマイケルの両親は完全な毒親なのか。
2つめはマイケルの純粋さについて。
下記めちゃくちゃ長くなってしまったのをお許しください…。
今すごくマイケルに浸かった生活をしていまして…笑。
1つめについて。
マイケルの両親は確かに毒親だと思います。子どもを搾取する大人、それは間違いありません。けれど父親の自伝では11人も子供がいて彼らのために毎日16時間働いていたそうです。ただの毒親がそこまでできるだろうか…と。(下記X添付によればですが)
(https://x.com/v_superfly_v/status/2068528065630863838?s=46&t=L1zU2ye5XAxwJt_CBKqvrA)
彼らは黒人というだけで酷い扱いを受けていたと想像できます。時代的にはKKKの全盛期を過ぎたとはいえ…という時代ですし。
自分たちのような生活をして欲しくない、もっといい人生を、というのは子を思いやる気持ちだと。そこに自分の願望(欲望)を乗せていたのは否定できませんが…。彼らも時代に搾取されて心をぎたぎたにされてきた側だと。最も改善すべきは毒親を育てるシステムを作った権力者や制度だとも強く思います。
(私も鞭を打たれるシーンで子供になんてことをするんだ!と心がひどく傷ついた側の人間なので、時代の被害者だったとしても、その行動は決して許されませんが…)
1でお聞きしたいのは、毒親は自分の星を陰転させ他責でボクチン、アタクシは悲劇の寵児なんです!だから自分以外の人生に手が出る口が出るのは仕方がない!という人々は易きに流れてしまった人なのか、それとも、逆らうことを許されず人としての良心を蝕まれた人の果てなのか…。もともとの性質と環境のハイブリットなのか…。はたまた…家系の膿なのか…。
2つめについて
マイケルがオックスフォード大学でしたスピーチがあります。その中で、してもらったことに目を向ける。許す、という言葉、スピーチそのもの自体に彼の愛を感じて、どうすればこの純粋性を失わずに世界を信じて生きることができるんだろう。とも思いました。
(下記添付は、個人の方が訳してくださった和訳です)
(https://toshimambo.exblog.jp/12544957/)
映画では一部シーンのみでしたが、実際には日常的に虐待を受けていたとおもいます。佳代さんが添付している母親の言葉からも疑いようがないとおもわれます。
(私も母親はきちんと愛してくれてよかったねぇ…と思っていたので、この情報で奥歯を噛み締めています)
私は人は自分が受けたことしか与えることができないと常々思っています。自分が与えられたもの以外を与えることができるのは自分自身を振り返る機会を持てた人だと。変えたいと気づいた人だけだと。でもそれもなかなか簡単なことではないとも。
しかし、マイケルが与えるのは愛、それからその与えられた愛に気づくことを私たちに伝えます。それは歌やスピーチや行動すべてにおいて一貫しています。
あれほど過酷な環境に身を置きながらも、愛を語り続け、世界を信じ続けられたのは、なぜなのか。命式にも表れている資質なのでしょうか。