4月にわたくしの好きなロシアのピアニスト、Grigory Sokolov/グリゴリー・ソコロフ氏を久々に聴いてまいりました。

前半ベートーベン、後半がシューベルトという最っ高!!なプログラムでした。

そして楽器と縁のない方には分かりにくいかも知れないのですが、非常に個人的・内的なお話をさせてもらいますね。
小さかった頃、楽譜を見て和音を弾いてみて、それに聴き入っている時がありました。
和音というのはこういう複数の音を一度にまとめて出す音のことです。単音の反対ですね。


一つの和音をギターで出してみて
この音の積み重なりは素晴らしいな、絶妙のバランスで体が○○と反応するのも心地いい
(○○は和音に寄って変わる)
と音が消えるまでずーーっと聴き入って、そして次の和音を出してみる。
この和音も素晴らしい音のサンドイッチだよなあ
これ発見した人は天才だろう
そしてさっきの和音との繋がり、その間の空気も最高だな
などと一つ一つ丁寧に音を堪能して浸っていた時がよくありました。
しかし技術がついてくると、譜面をすらすら弾くだけでなく
- 楽譜にはaccel. とあるからここはだんだん速く
- この時代の音楽様式はこうだから、ここはこう弾く
- 全体のテンポは『♩=○○だからLargo(Adagio、Andante、Moderato、Allegro、Prestoなど)』
- うんちゃらかんちゃら・・・
と沢山ルールがあるわけです。好き勝手弾いていいものでもない。
『守・破・離』は大事で、それに沿って進まないとやはり変になる。聴いてすぐに『ちゃんと学んでいない=取りこぼしが多すぎる』のがバレる。
それだけでなく、自分の良さが最大限出ない。
でもそういった王道をずーーーーーーーーーーーーっとてくてく歩いて、歩き続けて、人はどこに辿り着くのか。

私がソコロフ氏の先日の舞台で経験したこと。
それはまさに私が小さかった頃、部屋で一人で和音を出してみてその美しさにじーーーーーーーーーーっと聴き入って、音に身を委ねて、心から楽しく幸せになっていた、まさにあのシーンだったのです。
本当にそのままだった。
べートーベーンもシューベルトも、どちらもあるべきテンポ(曲のスピード)がある。
でもかの大ピアニストはそれを全部放り投げて、本当にゆっくりゆっくり・・・かろうじてその曲がその曲であると認識され得る極限までテンポを落として演奏されていた。
舞台の上で一つ一つの音を出してはじっくり聴き入って。丁寧に堪能しながら。
ああ、この方も私と同じあの時期があったのだ!
そしてあらゆる技術を身につけ、あらゆる『こうでなければ』を網羅して、現実舞台においてそれらをもって聴衆を納得させ、演奏家として生き続け・・今76歳という晩年に至り、そこに帰って来られたのだ!
そうか、人間ってそこに帰って行くんだ!!
と深く静かに衝撃を受けました。
嬉しかったですね。
やっぱりそれでいいんじゃん!と。
そう、そして思い出した。
私がこの方の演奏を初めてYouTubeで見つけてドはまりした時思ったのがまさにそれ。
やっぱりそれでいいんじゃん!
だったのです。

これは象徴的な話であって、音楽をやっていた/やっている人にだけ当てはまることではないでしょう。
スポーツとか料理とか芸術とか・・・・対象となるものが何かは本当はどうでもいい。
人は真摯に人生と自分に向き合って、ずっとその『自分であること』街道を歩み続けると、最終的には在りし日の自分に戻っていくのだなと。そこに自分の本質があるから。
大きく周り道をして、その周り道は絶対に省略してはいけない必須の周り道だけど、そこを通り抜けて原点に戻ってくることこそが『自分であること』街道の終着点なのだと。
人生は
あれで自分は良かったのだ
を自ら納得させる旅なのだと、最近深く思います。自ら、です。誰かに『それでいいよ、すごいね』と褒めてもらうのは疑似承認体験。それもいい。
でもそれを一通りやったら、最終目的は自己認証&自己承認。
やっぱりあの方はすごい演奏家ですよ。
あの方が存在して下さることに、感謝の念が絶えません。
本日もお読みいただきありがとうございました。

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